だから僕は海外に出る、さあ君も

「日本って何か変だなぁ」という疑問を胸に、思い切って海外脱出した著者が、海外からの視点で日本の社会問題や海外脱出アドバイスを綴るブログ。日本の奴隷的な長時間労働にうんざりしている人、ナショナリズム台頭・人口減・財政難の日本の行く末を危惧している人、協調性という名の同調圧力に耐えられない人、とにかく自分の殻を破ろうと思っている人、そんなあなたに『海外に出ること』を選択肢の1つとして提案する。

だから僕は海外に出る、さあ君も - ニートのガラパゴス日本脱出日記

ガラパゴス化している日本の奴隷的な労働環境と保守的な社会構造に適応できずに海外脱出したニートが海外視点で綴るブログ

仕事なんかクソだろ? 就活やめて日本を出よう! 奴隷やめて海外に出よう! 語学を学び世界に出よう! 「仕事なんてクソだろ」が売り文句の「ニートの海外就職日記」に影響を受けた、あるニートのブログ

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女性優遇ファシズム─ただし、「お客様としての女性」に限る

ここのところ、日本では「女性専用車両」をめぐって、テレビやネット界隈で揉めにもめている。この問題に関しては、私のブログでは、過去2回ほど取り上げた。1回目『女性専用車両の何が問題か?』では女性専用車両の問題点を、2回目『女性専用車両ではなく混雑緩和こそが痴漢対策』では女性専用車両の解決策を、そして3回目となる今回は、女性専用車両問題を含めた今の日本を覆う女性優遇の風潮の異常さについて書く。

女性優遇に傾倒する日本のマスコミ

この問題が大きく取り沙汰されて以降、私は「女性専用車両」に反対するグループのサイトやブログ、関連するYouTube動画を見てまわった。放送されたテレビ番組の動画も見てみたが、その多くが、問題の本質に迫ることなく、「女性専用車両に反対する側を叩く」という残念な構成になっていた。

インタビューを受けた本人(差別ネットワーク:ドクター差別さんこと兼松信之さん)は、実名・顔出しを求めていたにもかかわらず、放送時は顔にモザイクがかけられ、実名も団体名も出されなかった。彼は「誹謗中傷まがいの発言があっても、名誉毀損で訴えられないための予防策」と自身のブログで述べていてが、誹謗中傷まがいの発言をするであろう人を、出演させるのはいかがなものだろうか。結局のところ、反対派を悪者に仕立て上げ、叩く方向に持って行きたいという印象操作にしか見えなかった。

「女性優遇を旗印に、お年寄りや障がい者の男性など、本来優先されるべき弱者の人たちが蔑ろにされている」とコメントがあった「モーニングショー」が比較的まともだった。その番組は「トラブルを起こすような方法はよくない」で閉じられていたが、事が大きくなるまでマスコミが取り上げない以上、私は仕方ないのではないかと思う。

※ 実際、朝日新聞が「遅延の原因」としてサイトで取り上げ、ネットが炎上し、テレビが取り上げ、さらに別のテレビ局もそれに追随したという形になった。

世の中には、理不尽なことや間違った方向に進んでいることがたくさんあるが、きちんと取材し、追求し、論評し、そして文や映像といった形で表現することで、世間に知らしめ、社会をより良い方向に動かしていく。そんな大きい力があるからこそ、「第4の権力」と呼ばれるゆえんである。今のマスコミは、そんな崇高な精神は忘れ、大衆とスポンサーに迎合しているとしか思えない。日本のマスコミのレベルの低さが垣間見える。

ギャップ

もはや女性優遇ファシズム

それにしても、こういった状況を見ていると、今の日本は「女性優遇ファシズム」とでもいうべき状況になっているように思う。女性を喜ばせたり、優しくしたりすることこそが大切という風潮が日本全体に広がっていて、それに異を唱える人を、「思いやりがない」「男としての器が小さい」「マナー違反」などと徹底的に排斥するのである。そういった空気の中では、法、論理、理論、原理原則や客観的事実といったものは軽んじられる。場合によっては、法さえ解釈をねじ曲げ、こじつけようとする。女性専用車両はその筆頭だろう。

戦中・戦前の日本では、自由や人権といったものは、国益の名の下に徹底的に弾圧され、反対するものは、国民からも「愛国心がない」「非国民」と非難された。今の日本の異様な女性優遇も、それと同じようなものである。即ち、全体主義だ。

安倍政権は、「すべての女性が輝く社会づくり」を掲げているが、それがガラパゴス化したのものではないか。

フェミニスト(feminist)という言葉だが、日本では「女性を大切に扱う男性」「女に甘い男」という意味合いである。しかし、英語本来の意味は「女性に対する差別や不平等の解消を唱える人」である。日本語のような意味ではまず使われない。言葉の定義までガラパゴス化する日本……。

日本の女性差別はこんなに酷い

とはいっても、日本で女性が優遇されているのは、あくまで「お金を払ってくれるお客様としての女性」、あるいは「性の対象としての女性」である。社会の一員として働き、尊厳を守られる1人の人間としての女性は、おおよそ先進国とは思えないほど冷遇されている。

いくつか例を挙げよう。

  • 単身女性の貧困率は32%、男性は25%*1
  • 結婚したり、出産したりすると退職を迫られる風潮
  • 女性の管理職の割合は108ヵ国中96位で中国より下*2
  • 女性議員の割合は193ヵ国中158位で中韓を大きく下回る*3
  • セクハラや性犯罪の被害者となった女性を批判する風潮*4*5
  • AV出演強要や「JKお散歩」などに見る性的搾取
  • 政治家による女性蔑視発言の数々(「産む機械」「有害なのはババア」「女の子にサイン・コサイン」……etc)

国連の女子差別撤廃委員会から散々勧告されている「選択式夫婦別姓」*6も相変わらず実現していない。最近、二度目の訴訟が提起されたが、保守の塊とも言える自民党政権を忖度する日本の司法のことだから望み薄であろう。

さらに、安倍政権になってから、男女の格差の度合いを示すジェンダーキャップ指数も下がっている。(2017年は世界144ヵ国中114位、過去最低だった前年からさらに後退)

レディースデーなどを実施して、「当社は女性に優しい会社です」と言わんばかりに世間にアピールしている会社が、女性の管理職ゼロだったり、セクハラが横行してしたり、結婚・出産を機に辞めさせられたりすることがまかり通っているのが日本社会なのだから、開いた口がふさがらない。

これが「女性の輝く社会」なのだろうか?

おっさんたちは、女性の胸にではなく、自分の胸に手を当てて考えてみるべきではないか。

それにしても、日本ってどうしようもない国だなぁとつくづく思う。「あっ、だから衰退するのか……」と納得した瞬間、しょせん日本はこの程度の国なのかなと感じた。

女性専用車両の社会学

女性専用車両の社会学

女性専用車両ではなく混雑緩和こそが痴漢対策

前々回の記事では、最近話題になっている「女性専用車両」の問題点を取り上げ、男性にとっても女性にとっても差別に当たり、痴漢対策としても何ら意味がないという趣旨の記事を書いた。前々回の記事では、割愛した部分や書き足りない部分があったので、今回はその部分について書こうと思う。

この記事を書いているさなか、女性専用車両に反対するグループ「差別ネットワーク」が渋谷駅前で街頭演説をし、彼らに反対するグループがカウンター行動をするという事件があった*1。また、テレ朝が反対派グループの男性を取材し、テレビ放送されたことで、Twitterでも一時トレンドになり、今でも賛否両論が繰り広げられている。

カウンター団体は、レイシズムに反対するグループという指摘がある。人種差別に反対する人が、性差別に反対するグループを批判しているところをみると、彼らは「差別」の定義を理解していないように思えてくる。

反対派の人たちは以前からちょくちょくと「任意確認乗車」と称して女性専用車両に乗り込んだり、女性専用車両に反対する街頭演説を行ってたりしているようだ。女性客とトラブルになって電車を止めてしまうことも何度かあったが、今回はたまたま朝日新聞が「遅延の原因」として記事にした*2ことで一気に広がった感じだ。

ラッシュアワー

痴漢は日本の恥部

混雑した通勤電車内で痴漢が多く、痴漢によって苦しめられている女性が少なくないことは、紛れもない事実である。そして、痴漢は女性の尊厳を踏みにじる卑劣な性犯罪であると同時に、公共交通機関における痴漢は、無関係な男性に濡れ衣を着せるリスクをもはらむ。

女性客にとっては、自分の夫や父や息子が痴漢冤罪に巻き込まれることで、家庭崩壊に繋がる。男性客にとっては、自身が冤罪に巻き込まれるリスクがあることはもちろん、自分の妻や娘が、性犯罪の被害者になることもある。

国にとっては、痴漢が"chikan"として世界語になり、国際社会において性犯罪大国とのレッテルを貼られることは、日本を訪れたり、日本で働こうとしたりしている外国人の二の足を踏ませることになる。

痴漢は一般市民にとっても、国にとっても、深刻な社会問題である。早急な対策が必要なのは言うまでもない。

ただ、痴漢加害者の大半が男性であることを鑑みても、女性専用車両は痴漢問題の解決策ではない。女性専用車両が導入されて15年以上経つが、一向に問題の解決はしていない。むしろ、男女間の対立を煽ったり、問題の本質を覆い隠したりしているだけだ。痴漢対策として、女性専用車両(=基本的に女性しか乗れない車両)を作ればよいというのは、あまりにもお粗末すぎる。

痴漢対策は混雑率の緩和しかない

電車内での痴漢の発生時間帯が朝ラッシュ時*3であることからも、電車内の痴漢の多くは、身動き取れないほどのすし詰め状態の中で行われる。では、混雑率の緩和こそが最大の痴漢対策になるだろう。

実際、特に東京圏の通勤電車の混雑は常軌を逸している。

英語版Wikipediaの山手線の記事(2016年)によると、

  • ロンドン地下鉄は、11路線270駅で、1日の利用者数は336万人。
  • ニューヨーク地下鉄は、26路線482駅で、1日の利用者数は508万人。
  • 東京は、山手線1路線29駅だけで、1日の利用者数は368万人。

である。

つまり、東京は山手線1路線だけでロンドンの地下鉄全路線に匹敵する利用者がいる。もちろん、東京を走っているのは山手線だけでなく、山手線の内側を中心に多数の地下鉄が網の目のように張り巡らされ、池袋・新宿・渋谷などのターミナルには他の路線が乗り入れている。さらに10両編成といった比較的長い電車がひっきりなしに発着している。それにもかかわらず、あの混雑なのだから、東京の鉄道混雑水準が、欧米先進国の大都市のそれからかけ離れているかは想像に難くない。

「9時だョ!全員集合」を今度こそ見直すとき

混雑を緩和するには、編成両数を増やすか、線路を増やすか、あるいは、新路線を作るかしかない。東京の人口は増え続けているが、2025年をピークに減少に転じると予想されている。将来的な人口減少を見越せば、鉄道事業者は設備投資には及び腰にならざるを得ない。

輸送力増強に頼らずに鉄道の混雑を緩和するにはどうすればいいだろうか?

  • 東京一極集中の是正
  • フレックスタイム
  • 在宅勤務
  • 時差通勤

あたりだろう。

多くの会社や学校は午前9時までに始まる。そのため、必然的に午前7時〜8時代の電車が混雑する。

ITがこれほど発達しているにもかかわらず、なぜ9時始業にこだわるのだろうか? 9時に全員が顔を合わせる必要がどこにあるのだろうか? サービス業など職によっては9時に全員がそろっていなければ仕事が始められないというケースもあるだろう。しかし、ホワイトカラーの仕事であれば、始業・終業時間の融通は利かせることができるはずである。また、学校においても、授業の一部をオンライン化して自宅で受けられるようにできるだろう。実際、ネットを使った通信制の高校や大学はあるのだから。

私が生まれる前に「8時だョ!全員集合」というバラエティー番組があったが、日本は「9時だョ!全員集合」と言わんばかりの前世紀的な働き方をいい加減に終わらせるときではないかと思う。

鉄道事業者は実効性のある痴漢対策を

鉄道事業者も、「他社局もやっている」「(消費者としての)女性を優遇する=女性に優しい会社=世間受けがいい」といった理由で女性専用車両を設定するのではなく、実効性のある痴漢対策(混雑緩和策)を本気で取り組んでもらいたい。例えば、車内防犯カメラの設置、制服警官の配置、定期券やICカードの時間帯別運賃の導入などだ。

※ 防犯カメラ設置や制服警官配置で犯行の一部始終をとらえることは難しいが、抑止効果はある。

百歩譲って、「女性専用車両が痴漢対策に効果的であり、今後も続ける」と主張するなら、女性専用車両導入で痴漢がどれだけ減ったのか、他の車両の混雑率はどうなったのかなどの説得力のあるデータを出すと同時に、男女平等との整合性や任意性の担保について自社の考えを明らかにすべきではないか。残念なことに、「女性専用車両に反対する会」のサイトを見る限り、鉄道事業者は、そういった指摘には曖昧な対応に終始しているようだ。

それにしても、女性専用車両問題とその背後には、日本が抱える非常に多くの問題が凝縮されているように思う。

性差別、東京一極集中、9時始業という画一的な働き方、冤罪リスクと「人質司法」と呼ばれる司法の後進性、消費者としての女性は優遇する一方で労働者としての女性は冷遇する社会、性犯罪に対する認識の低さ、差別に対する理解不足、論理ではなく感情論で良し悪しを判断する世間……etc。

解決への道のりは遠そうだが、私たち日本人が問題を問題として認識し、解決へと向けて考え、行動に移す必要がある。

女性専用車両の社会学

女性専用車両の社会学

女性専用車両の何が問題か?

先週金曜日(2018年2月16日)、東京メトロ千代田線で、女性専用車両をめぐって一悶着があった。

※ 女性専用車両に反対する男性が女性専用車両に乗り込み、トラブルが発生することは以前からたまにあったが、今回は朝日新聞が記事にしたことで議論を巻き起こした。

女性専用車両

「女性専用車両」と聞くと、男性は乗れないと思われがちだが、法律上の根拠はない。法の下の平等を定めた憲法に抵触するからである。そのため、鉄道事業者としては「お願い」するしかない。*1

私が女性専用車両に反対する3つの理由

私は、以下の3つの理由により「女性専用車両」には反対する。

① 女性専用車両は性差別

「差別」の定義は、性別、肌の色、出身地、性的指向・性自認(LGBT)、国籍など能動的に変えられない属性に対して、不利益な扱いをすることである。その定義に当てはめれば、女性専用車両は、男性であることだけを理由に、性犯罪者予備軍や不快な存在として特定の車両から実質的に排除しているのだから、明白な差別である。どんな詭弁を弄しようが差別は差別だ。

鉄道営業法34条では「婦人ノ為ニ設ケタル待合室及車室等ニ男子妄ニ立入リタルトキ」は科料を科すと定められている(現憲法下では無効)が、法的根拠のない「お願い」しかできない時点で、鉄道事業者自体が男女平等に反する(=男性差別)ことを事実上認めてしまっている。

② 女性専用車両は男性客の利便性を大きく損う

エスカレーターや階段でホームに上がった場所に女性専用車両が位置していると、それを避けるため、男性は一車両分(約20メートル)歩かなければならない。発車間際であれば乗り遅れることもあるだろうし、駆け込み乗車しようとして人とぶつかってしまうこともあるかもしれない。また、お年寄りや身体の不自由な人にとっては、わずか一車両分の移動すら困難な場合がある。

※ 鉄道事業者は身体の不自由な男性も乗れることを周知しているが、身体が不自由かどうかは外見からは分からない人もいる。移動に困難を来す人が必ずしも障害者であるとは限らない。

③ 女性専用車両は痴漢対策になっていない

女性専用車両は痴漢対策として導入されたが、痴漢対策に何ら寄与していない。女性専用車両によって、痴漢の発生件数が増えることはあっても、減ることはない。

痴漢の発生する時間帯は、平日朝ラッシュ時が突出している。痴漢は逮捕されることを最も恐れているので、混雑が激しければ激しいほど好都合である。実際、女性専用車両を写した動画や画像を見てみると、女性専用車両とその隣の車両で混雑率に大きな差があることが分かる。結局、女性専用車両は、他の車両の混雑を悪化させ、一般車両に乗る女性が痴漢に遭う確率を増やしているだけである。当然、男性客にとっては、痴漢冤罪に巻き込まれるリスクも増える。

偶数号車は男性、奇数号車は女性といったように完全に男女別にすれば痴漢はほぼなくなるだろう、おおよそ現実的ではない。

※ 女性専用車両導入の前と後では、後の方が痴漢被害が増えたという報道が以前あった。

男が痴漢になる理由

男が痴漢になる理由

「女性専用車両」は痴漢問題解消の「解」ではない

女性専用車両に反対する人が鉄道事業者に抗議すると、「迷惑行為防止のためです」「任意協力なので法律上問題ありません」と言われる。では、痴漢被害に苦しんでいる女性が鉄道事業者に対策を求めて抗議すると、何と言われるのだろうか? 十中八九「女性専用車両を設けておりますので、そちらをご利用ください」と言われるであろう。

ここが問題である。痴漢の存在を鉄道事業者自らが認めてしまっていることになるからだ。

女性専用車両は、首都圏では端っこにあることが多いため、混み合ったホームを女性専用車両の乗車位置まで歩かなければならない。非常に不便である。痴漢に遭いたくない女性を、不便な「女性専用車両」に隔離することが正しいことなのだろうか?

女性は好きな車両に乗り、かつ、痴漢(という名の性犯罪)によって尊厳を犯されない権利があるはずではないか。

同和問題に例えると、行政が「差別されたくないなら引っ越せばいいだろ」と言っているのと同じことだ。私たちには居住の自由(憲法22条)があり、差別を受けない(憲法14条)ことが憲法で定められている。この場合、「移動しろ」というのではなく、差別をなくすのが本筋であろう。

つまるところ、女性専用車両は、男性差別であることはもちろんのこと、痴漢対策にすらなっておらず、「男性がいないこと」自体を売りにした鉄道事業者の女性優遇サービスに他ならない。JRと私鉄との競争が激しい関西の方が、女性専用車両の設置時間帯が長い(終日導入も珍しくない)ことからも明らかだ。

女性専用車両ではなく痴漢問題の根本解決を

女性専用車両は、日本人の大好きなオーベー(欧米)にはない。以前、英国で痴漢対策として女性専用車両導入が提言されたことがあったが、「我々は性別によるアパルトヘイトは望まない」と一蹴された。*2*3 英国を初めとした欧米の鉄道は頻繁に遅れるが、人権意識や男女平等といったものは、日本とは比較にならないほど進んでいる。逆に、日本が未だ先進国と言えるのは、インフラ、技術力と経済力だけと言えるだろう。(その技術力も経済力も急速に落ちている)

日本は、20秒の早発を謝罪するよりも大切なことがあるのではないか。

私たちは、臭いものに蓋をするのではなく、臭いの原因となるものを少しずつ取り除いていくべきである。痴漢(という名の性犯罪)に苦しめられている女性が求めているのは、隔離ではなく、痴漢をなくすことなのだから。そして、そのことは日本の国益にも繋がる。

性犯罪やセクハラは、社会の秩序を乱し、成長の要である外資企業の誘致を阻む重大な社会問題――。そんな認識がシンガポールでは徹底している。「日本は伝統的に均質で男性上位のヒエラルキー社会で、女性が性被害を訴えることを好まない。そうした社会や職場の『普通』に負けないこと」

(@シンガポール) シンガポールから考える被害者重視のセクハラ対策:朝日新聞デジタル

誰も、自分の彼女や娘を、性犯罪が横行している国に行かせたいとは思わないだろう。

英外務省の訪日注意喚起情報サイト(英語)に「通勤電車内での痴漢(chikan)はかなり一般的である」と掲載されている。

女性専用車両のことを外国人に話すと、

  • 「女性専用エスカレーター、女性専用車線、女性専用駐車スペースとかも導入したら(笑)」
  • 「日本って変な国だよね。消費者(お客)としての女性は優遇されてるのに、生産者(労働者)としての女性は信じられないほど冷遇されているのだから。日本の女性はもっと怒った方がいいよ」

と言われた。

ダボス会議を主催する「世界経済フォーラム」が発表した男女格差の度合いを示すジェンダーギャップ指数(2017年)で、日本は世界144カ国中114位となり、過去最低だった前年の111位からさらに後退したそうだ。*4 安倍晋三首相曰く「すべての女性が輝く社会づくり」(笑)

日本の女性がグローバル社会で戦う方法

日本の女性がグローバル社会で戦う方法

無理して「リア充=普通」にならなくてもよい、リア充度=人間の価値ではないのだから

今の日本を見ていると、「リア充至上主義」なるものがはびこっている。逆に、リア充でない人間、いわゆる「非リア」に対する風当たりはすこぶる強い。そのため、多くの人がリア充であろうと、あるいは、リア充に見せようと躍起になっている。今回は、そんな日本の風潮について書いてみた。

もはや「仲良し教」という宗教

かなり以前、私は以下のような記事を書いた。

今の日本を覆う「リア充至上主義」もそれと同じで、「仲良し教」「リア充教」というべきカルト宗教のように見えてくる。おそらく、「友達は多ければ多いほどいい」「ぼっち=大罪」という教義でもあるのだろう。

そのため、

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と見なされ、まるで人間失格のような烙印を押される。それを避けるため、多くの人が、時には不本意なことでも我慢してまで、「輪の内側の人間」であろうとあがいている。自分では「輪の外側の人間」と認識していても、周りからはそう悟られないようにしている人さえいるほどだ。「便所飯」「リア充に見せるサービス」「結婚式への代理出席サービス」などの存在は、まさにその典型例といえる。

リア充至上主義がはびこっているのは、プライベートだけでなく、就活の場でも同じだ。就活において、企業が求める能力の代表格が「コミュニケーション能力」(コミュ力)である。定義が曖昧な言葉だが、これは「リア充度」を指している可能性が高い。そのため、学業成績の良し悪しや専攻よりも、サークル活動やコンパに精を出し、SNSがそういった写真であふれている人ほど「コミュ力が高い」と見なされ、評価が上がる。逆にSNSを使っていないと、評価が下がる。*1*2

「普通」になろうとせず、普通に生きよう

このように、日本では、リア充(=「普通」)であることへの同調圧力が極めて高いのだが、私は、無理して「普通」になる必要はどこにもないと思っている。なぜなら、リア充であるかどうかで、人間の幸福度や価値は決まらないからだ。

この記事では、カギ括弧付きの〝「普通」〟と、付けていない〝普通〟がある。前者は、みんなと同じという意味での「普通」であり、後者は本来の自分、自分らしい自分という意味での普通である。

輪の中に入ってみんなとわいわいすることが好きな(得意な)人がいれば、嫌いな(苦手な)人もいる。初対面の人とでも容易に打ち解けられる人がいれば、それがなかなかできない人もいる。そういった、いわゆる「コミュニケーション能力」は、背が高い・低い、足が速い・遅いと同様、その人のパーソナリティーの1つに他ならない。そして、パーソナリティーは、変えようと思って簡単に変えられるものでもない。無理に変えようとすると、「私は輪の中に溶け込もうとしているのにできない」→「世の中はリア充至上主義で、リア充になれない人は人間失格」→「私は存在価値がない」という深みにはまってしまうだけだ。

また、「リア充度=人間の価値」でもない。下図のように、人の評価する指標はいくらでもある。

コミュニケーション能力に傾倒する日本

当然、人によって得手不得手がある。リア充度(コミュ力の高さ)もそれと同じで、しょせんは人を評価する指標の1つに過ぎない。高い方がいいかもしれないが、高くなければならないなんてことは全然ない。例えば、プログラミングができないからといって、人間のレベルも低いとは見なされないだろう。それと同じだ。

リア充のように見えているから幸せとは限らない

それに、リア充(に見える人)が必ずしも幸せとは限らない。

今や多く人がスマホを持ち、LINEで繋がっている。特に中高生は、LINEですぐに返事を返さないと、既読スルー(KS)扱いされ、最悪、仲間はずれにされるケースがある。そうなると、当然「ぼっち」になってしまう。「仲良し教」がはびこる日本社会で、ぼっちは大罪とされている。そのため、「勉強したいけどLINEを優先せざるを得ない」というも生徒が少なくないというケースを本で読んだ。

社会人になってからは、飲み会、BBQ大会やカラオケがあることが珍しくないが、そのような場が苦手な場合、それに無理して参加しても、心から楽しむことはできない。人によっては苦痛に感じることすらあるだろう。しかし、半ば強制参加のケースもあるし、「リア充至上主義」の日本では、不本意でも参加することへの圧力が非常に強い。

それで本当に幸せなのだろうか? そこまでして関係を維持しなければならないものだろうか? 日本特有の「リア充至上主義」「仲良し教」の同調圧力に押しつぶされているだけではないだろうか

自分の時間を生きられる人こそが「真のリア充」

「『普通』になれない」「輪の外側の人間になってはいけない」と思い悩んでいる人は、「ぼっち上等」「リア充が何やねん」「私は人付き合いが悪い人間ですが何か」と開き直って、「自分の人生を生きること」を目標に舵を取ればよいのではと思う。つまり、「普通」になることよりも、自分が本当に好きなことに時間を割くのだ。スポーツ、ゲーム、プログラミング、読書、旅行、ボランティア、映画、音楽……などなど、好きなことなら何でもいい。その過程で、境遇が似ている人、気が合う人、この人と仲良くなりたいなと思う人は出てくれば、その時は、勇気を持って第一歩を踏み出してみればいいのではないかと私は思う。

趣味

それが本来の友達のでき方・作り方ではないだろうか。

私に言わせれば、「仲良し教」の同調圧力に負けて、「リア充」を演じているだけ人よりも、自分の時間を第一に生きている人の方が、100倍リア充であると思う。

だから、「普通」になろうとせず、普通に生きようよ。

「みんなで『リア充』の振りをして、みんなで不幸になろう会」なんてくだらない会はいい加減にお開きにしよう。

どうしても、同調圧力が強い村社会である日本社会が息苦しいと感じたり、溶け込むことが難しいと思ったりするなら、何度も言っている通り、「海外脱出」という選択肢がある。

しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール (幻冬舎新書)

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「ネット民」という残念な人たち

下の画像は、以前に「ネット住人」と何気なくGoogleで検索しようとした結果である。嫌われていることが一目瞭然だ。(「ネット民」「ネット住民」でもほぼ同じ)

「ネット住人」のGoogle検索サジェスト

ネット民──名前欄には「名無し」「通りすがり」といったあからさまな捨てハンや匿名アカウントを使い、二人称は「お前」「てめぇ」、そして「○○厨」「ナマポ」「パヨク」「アスペ」「DQN」といった程度の低いネット用語をまき散らしながら、我こそが正義とばかりに傍若無人に暴れ回る、ちょっと、いや、かなり困った人たち。──嫌われない方がおかしい。

この記事を書いているさなか、ACジャパンが、そんなネット民たちを風刺したインパクトが強い広告(TV・ラジオ・新聞)を展開し、話題になっている。非常に秀逸なので、一度見てもらいたい。

ACジャパンのネット炎上批判の広告動画

俺たちは「正しい」??

よくネット民が自分たちの言動を正当化する口実として、「俺たちが言っていることは『正しい』」がある。論理的に正しいか否かと訊かれれば、「正しい」こともある。しかし、真面目なブログや実名を出している専門家に対して、呪詛に満ちた言葉を投げかけている様からは、相手に対するリスペクトは微塵も感じられない。もし、相手を説得したり、世の中を流れを変えたりしたい考えているならば、彼らのような物言いはまったく逆効果である。私には、匿名をいいことに、独り善がりな正義感に酔いしれている「御山の大将」にしか見えない。(禁煙場所で喫煙している人をスタッフが注意することは正しいが、その時でも「てめぇ、ここは禁煙だろうが。字が読めねえのかよ!?」と言わないのと同じだ)

残念な「ネット民」が減らない理由

これだけ嫌われているにも関わらず、ネットで悪態をつく残念なネット民は一向に減らない。その理由はどこにあるのだろうか?──それは、叩くことに快感を覚える「バッシング中毒」になっているか、あるいは、ストレス発散の手段がそれしかないからであろう。

誰かのあら探しをしたり、誹謗中傷したり、(御託を並べて)論破したり、暴言を吐いたり、あるいは、自分より下の者を貶めたりすることは気持ちがいい。なぜなら、それによって、溜飲を下げたり、優越感を感じたりできるからだ。

しかし、現実世界ではなかなかこうはいかない。現実世界で、イライラするからといって、見ず知らずの人にいきなり暴言を吐けば、殴り合いの喧嘩に発展するかもしれない。会社・学校であら探しばかりしていると、自分に対する周囲の評価が下がってしまう。現実世界で、他人より優位に立ったり、他人から認められたりしようとすれば、目に見える結果を出す以外に道はないのだが、相応の努力が必要だ。(以下の過去記事も参考)

他方、ネット空間は匿名である。よほど悪質でない限り、特定されて責任を問われる可能性は低い。また、自分より下の者も簡単に見つかる。

※ 他人と自分を比較する物差しは何でもよい。学歴、収入、恋愛経験、実家暮らしか自活か、既婚未婚、SNS充実度……etc。

ネット特有の「狭い繋がり」が、「自分は正しい」を増幅させる

さらに、これらに拍車をかけているのが、ネット特有の「狭い繋がり」だ。

SNSやブログであれば、多かれ少なかれフォロワーや読者がいる。掲示板であれば、足繁く通っている「住人」がいる。誰をフォローするのか、どのブログの読者になるのか、それを決めるのは自分である。そのため、多くの人は、自身の考えに近かったり、共通の趣味が合ったりする人をフォローする。そうなると、目にするのは、自分にとって心地いい情報が多くなる。また、同じ価値観を持つ人が集まっているので、必然的に自分のコメントにも、イイネが付いたり、シェアされたりするしやすくなる。時には、「よくぞ○○を論破してくださいました。さすがですね」「僕もそう思っていました!」といった同意や賞賛のコメントが付くこともあるだろう。逆に、意に反するコメントやユーザーは、ボタン1つで簡単にブロックできる。その結果、どうなっていくのか?──「裸の王様」のようになってしまう人が出てくる。

はだかの おうさま【裸の王様】
〔アンデルセン童話の題名から〕 直言する人がいないために、自分に都合のいいことだけを信じ、真実を見誤っている高位の人を揶揄する表現。「理事長は今や―だ」
スーパー大辞林3.0 (C) Sanseido Co.,Ltd. 2010

こういう現象のことを、「エコーチェンバー現象」という。昨年(2016年)11月のトランプ氏当選にも影響を与えた。

「残念なネット民」にならないために……

ここまで「残念なネット民」について書いてきたわけだが、実は、誰もが「残念なネット民」になる要素を有している。あなたのブログやSNSに批判コメントが投稿され、ついついそれに反論してしまい、気が付いたら汚い言葉による応酬になっていた、というようなケースだ。端から見れば、あなたも立派な「残念なネット民」である。

では、そうならないためには、どうすればいいのだろうか?

私は、「自分とは違う考え方がある」ということを肝に銘じ、それを尊重することではないかと思っている。どうしてもそれが受け入れられず、口論になりそう、あるいは、なってしまった時は、アメリカの人気作家スティーヴン・キングが言った、次のことを思い出すことを提案したい。

ウンコ投げ競争の優勝者は、手がいちばん汚れてない人間だ

スティーヴン・キング

この部分は、村上春樹さんも自身の著書(ムック)の中で引用していて、次のように述べている。

理不尽なことを言われたらどうする? (疑問67より)

村上春樹:「それはちょっとないだろうよ」というような理不尽なことを他人に言われる機会は、僕にも少なからずあります。

昔スティーヴン・キングが「ウンコ投げ競争の優勝者は、手が一番汚れていない人間だ」と言いました。つまり、どれだけ他人にウンコを投げて命中させるかが大事なのではなく、そんな無意味なことで手を汚さないのが人間の品格なんだ、それよりは自分がやるべきことをちゃんとやろうということです。あなたも頭にくることがあったら、このキングさんの言葉を思い浮かべられるといいと思います。

今、この瞬間も、嫌われていることに気付かず、ウンコ=汚い言葉を投げ合って消耗している「残念なネット民」が数多くいる。そして、そんな雑魚たちによる糞コメントが金魚の糞のようにネット社会の底に延延とこびりついている。

私たちは、彼らの土俵に上がらず、自分の時間を生きようではないか

もし、ここで書いたような「残念なネット民」がこの記事を読んだ場合、顔を真っ赤にして私のあら探しをし始めることだろう。そして、叩けるものが見つかったら、鬼の首を取ったように、クソリプという名のウンコを投げつけてくる。そう、それこそが「残念な行動」である。

人を動かす 文庫版

人を動かす 文庫版

「迷惑かけるべからず教」がはびこる不寛容な日本

今の日本を俯瞰していると、「他人様に迷惑をかけるべからず教」なるものがはびこっている。「他人様に迷惑をかけてはいけない」は、一見もっともらしい理屈である。しかし、突き詰めていくと、不寛容・不自由でギスギスした世知辛い世の中になっていく。

迷惑かけんニャ

「迷惑をかけるな」の問題点

生きていれば、多かれ少なかれ他人に迷惑をかけてしまうことになる。そもそも迷惑をかけずに生きること自体が不可能である。

いくつか例を挙げよう。

  • 風邪を引いて会社を休めば、同僚・上司・取引先など多方面に迷惑をかけてしまう。だからといって、生身の人間である以上、風邪を引かないことは不可能だ。どれだけ体調管理をしていても引くときは引く。
  • 子供を産むと、泣き声で近隣に迷惑をかけてしまう。ベビーカーを使って外出すれば、歩道・駅・車内・商業施設など様々な場所で多くの人に迷惑をかけてしまう。
  • 身体に障害がある人が、車椅子を使ったり、介助犬を連れたりして外出すると、行く先先で迷惑をかけてしまう。
  • 歳を取って、認知症になったり、寝たきりになったりすれば、家族や近隣に迷惑をかけてしまう。

もし、「迷惑をかけるな」と言うのであれば、それは「生きるな」と言っているのに等しい行為だ。

迷惑をかけない社会の行く末は地獄だ

「迷惑かけるべからず教」が蔓延していくと、どういう社会になっていくのだろうか? 何をするにも常に人目を気にして、少しでも他人に迷惑をかける可能性があれば控えなければならないようになる。自分が迷惑をかけることを恐れて手控えるようになると、他の人の些細な行動さえ許せなくなり、「俺は(迷惑をかけないために)我慢したのに、お前は何だ!?」という負の同調圧力が働くようになる。そういうことが社会全体に広がっていくと、ものすごく不寛容で息苦しい社会になっていく。

  • 「俺は38度の熱があったけど、休むと迷惑がかかるから無理して出勤したんだぞ。それに比べて、お前は何だ!? タクシー使っても出勤しろ」
  • 「私はキャリアのために結婚・出産をあきらめたのよ。それに比べて、あなたは何よ!? どれだけ私たちに迷惑かけてるか分かってるの?」
  • 「途中で原発再稼働反対のデモがあったよ。うるさいし、通行の邪魔だし、迷惑以外の何物でもないよな。共謀罪を恣意的に解釈して逮捕しろよ。そのための法律だろ?」
  • 「この前、レストランに行ったけど、盲導犬が隣にいたよ。迷惑だよなぁ」
  • 「車椅子って駅とか電車の中とかではマジ邪魔。車使えよ。迷惑考えろつーの」
  • 「○○駅で人身だってさ。会社遅れるじゃねぇか。死ぬときまで迷惑かけんな」

このように「迷惑かけるべからず教」がはびこる社会は、ものすごく息苦しい。そして、その先に待っているのは、人間が人間らしく生きられない地獄のような世界だ。

また、「迷惑かけるべからず教」がはびこる社会では、新しいことに挑戦しようとする人が現れてきにくい。なぜなら、新しいことに挑戦することは、常に失敗リスクがつきまとうからだ。失敗すると迷惑を被る人がたくさんいる。「失敗したら迷惑がかかるから」と何もしないと、当然そこからはイノベーションは生まれてこない。

大切なことは「思いやり」を持つこと

では、「他人のことなどお構いなしに自由勝手に振る舞っていいのか!?」と言われればそれは違う。

『自由論』(ミル著)によれば、「自由」とは、他者の功利を損なわずに自身の功利を追求する自由である。この場合、功利の衝突が問題になってくる。例えば、「自由に表現したい」と「名誉をプライバシーを守りたい」といった具合だ。こういうときは、お互いが相手を思いやり、双方が納得できる着地点を見つけることが重要になってくる。この相互の調整こそが、日本国憲法にも書かれている「公共の福祉」である。

ちなみに自民党の改憲案では、「公共の福祉」がすべて「公益及び公の秩序」に変えられている。これでは、「お国に迷惑をかけるな」「世間様に迷惑をかけるな」と言っているようなものだ。この改憲案がそのまま改憲項目として発議される可能性は低いが、自民党の本性が垣間見える。こんな政党が政権与党として相応しいかどうか、私たちは今一度考えてみる必要がある。

私が「迷惑かけるべからず教」の呪いにかけられていた頃の話

欧米のスーパーマーケットはベルトコンベア式である。レジで精算する時、客は買い物カゴやショッピングカートから商品を1つずつ取り出し、ベルトコンベアの上に載せていく。前後の人との商品を区別するために、長細いプレートを置く。座っているレジ係がペダルを踏み込むと、そのベルトコンベアが動き、レジ係がバーコードを次々と通していく。バーコードスキャンが終わった商品から、買い物客がその場で袋詰めしていく。袋詰めが遅いと、後ろの人は待つことになる。私は、日本のようにカゴからカゴへ入れる方式の方がいいのにと思っていた。「袋詰めに手間取って後ろの人に迷惑をかけてはいけない」という思いが心の奥底にあったのだろう。しかし、周りを見てみると、私のように焦っているとみられる人は皆無だった。それどころか、レジ係の人と談笑しながら、ゆっくりとしたペースで袋詰めをしている人もいた。

友人に話すと、大笑いされ「考えたこともなかったよ。もちろん、後ろの人を困らせてやろうとわざと遅くするのは論外だけど、そうじゃないんだから他人のことにそこまで気を遣う必要はないよ」と言われた。

今思うと、あの時は「迷惑かけるべからず教」のドグマに毒されていたのだと思う。私を束縛していた「迷惑かけるべからず教」の足かせが取れたとき、まるで洗脳から解き放たれたように心が軽くなった。

迷惑をかけないために……

「思いやりが大事だ」といくら声を大にしても、ここまで「迷惑かけるべからず教」がはびこっている日本ではなかなか難しい。では、開き直って、迷惑をかけないための最大限の努力をしようではないか。それは何か? ブログで何度も言っているように、海外に出ることである。

  • 有休を取られたら迷惑なんでしょ?
  • 残業しない人は迷惑なんでしょ?
  • お上のやり方に口を挟む人は迷惑なんでしょ?
  • 子供がいる女性は迷惑なんでしょ?
  • イノベーションに挑戦して失敗したら迷惑なんでしょ?

ということで、優秀なあなた、意欲あふれるあなた。「迷惑かけるべからず教」がカルトのごとくはびこる日本なんかさっさと棄てて、海外に脱出しよう。成熟した民主主義、すばらしい労働環境と研究開発環境、多様性を尊重する自由な風土、失敗ややり直しに寛容な社会があなたを待っている。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

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耳をすませば、怨嗟の声が聞こえる─♪カントリーロード この道 ずっと 行けば……😱

昨週放映された『千と千尋の神隠し』に続き、今夜(2017年1月27日午後9時)は『耳をすませば』(近藤喜文監督/宮崎駿脚本)が放映される。

この作品がテレビ放映されるたびに、ネット上では「鬱になった」「死にたい」といった怨嗟の声が吹き荒れる。「鬱アニメ」「耳をすませば症候群」なんて言葉もあるほどだ。おそらく、パッとしなかった自分の中高生時代と比べてしまい、憂鬱な気分になるのだろう。たとえ、中高生時代に良い思い出がなくても、今が幸せならそれでよいだが、そうでないところを見ていると……。

私に言えることは1つ。──行動を起こそう!

耳をすませば [DVD]

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♪カントリーロード この道 ずっと 行けば…

この映画の主題歌は、「カントリーロード」(Take Me Home, Country Roads)である。『耳をすませば』のプロローグはオリジナル(英語版)のままだが、エンディングの歌詞は変えられていて、

カントリーロード この道 ずっと 行けば
あの街に 続いてる 気がする カントリーロード
ひとりぼっち 恐れずに 生きようと 夢みてた
さみしさ 押し込めて 強い自分を 守っていこう
(略)
カントリーロード 明日は いつもの僕さ
帰りたい 帰れない さよなら カントリーロード

のようになっている。

この作品が公開されたのは1996年であるが、歌詞を見ていると、ジブリは日本の行く末を知っていたのではないかと思うほど、現在の日本人の姿とそっくり重なる。(「ひとりぼっち」「さみしさ」「帰りたい帰れない」)

安倍晋三首相のカントリーロードは亡国街道

この道を。力強く、前へ安倍晋三首相は、「この道を。力強く、前へ」でんでんなどと言っているが、この道をずっと行って続いているのは、過労死・少子高齢化・介護難民・人口減・自治体消滅・孤独死・生涯未婚・貧困…etc、つまり、日本の破局である。オリジナルの歌詞では、"Almost Heaven"(ほとんど天国)というくだりがあるが、私にしてみれば、日本の現状は"Almost Hell"(ほとんど地獄)である。このまま人口減が続けば、"Absolutely Hell"(本当の地獄)になるだろう。

安倍首相や日本会議が唱える、「美しい国」(うつくしいくに)を逆から読むと、「憎いし苦痛」(にくいしくつう)になるのだが、どうしようもないほど憎くて苦痛な国になっていくのだ。「一億総活躍」を旗印に奴隷のように死ぬまで働くことを余儀なくされ、弱者は「自己責任」と切り捨てられ、年金はもらえず、結婚もできず、孤独にうちひしがれ……。

そう、自民党・安倍晋三ロードは、正に地獄の一丁目への道—亡国街道だ。

帰ることができる故郷がなくなっていく

「カントリーロード」(Take Me Home, Country Roads)の日本語タイトルは、「故郷に帰りたい」だ。このままだと、かつての故郷はなくなっていく可能性が高い

毎日のように使っていた鉄道は廃線になり、住み慣れた町は空き家だらけになり、商店はシャッターを閉じ、学び舎は統廃合で廃校と化し、道路はひび割れ…、のようになっているのではないかと予想する。残念であるし、想像したくないのだが、人口が減るとはこういうことだ。映画の舞台となった聖蹟桜ヶ丘でも、少子高齢化が進んでいるという*1

東京ではないのだが、高度成長期のニュータウンに私の家族と話すと「救急車のサイレンを聞く回数が増えた」「電車の乗客が少なくなった」と言われる。自治体のサイトを見てみると、いつしか「移住者歓迎」という特設ページができていた。

過ぎ去りし時を嘆くより、未だ来ぬ時を信じ、行動を起こそう

映画を見て、自分の過去と対比して、ブルーな気分になってしまう気持ちは分かる。しかし、時計の針を戻して、青春時代をやり直すことはできない。私たちにあるのは、未来だけだ。だから、未来を信じて行動を起こすしかない。「もう遅い」「手遅れだ」なんて言わずに。もし、あなたが今30歳で、15歳の頃からやり直したいと思っているならば、45歳のあなたが、30歳の頃からやり直したいと願って、30歳に戻ったつもりで。

どのように行動をするのか?──ある人は地方移住を推している、ある人は海外脱出を推している、ある人は起業を推している。親は、「頑張ればいつかは上の人に認めてもらえて正社員になれる」「結婚するなら大企業や官公庁勤めの安定した人となさい」と言っているかもしれない。──こればかりは、正しい答えはない。(私は海外脱出を推しているが、万人に当てはまる解決策だとは思っていない)

昨年末の記事でも書いたが、時代の潮流、自分がやりたいことと自分にできそうなことを見極め、自分にとって少しでもプラスになりそうな生き方を模索していく以外にない。映画のようにうまくいかないかもしれないし、その可能性の方が高い。それでも前に進んでいくしかない

私の中学時代を振り返ると、お世辞にも充実していたとは言い難いものだった。公民の教科書に載っていた通勤客らでごった返す山手線の写真を見たり、巻尾の日本国憲法と現実の乖離に嘆いたりしたことが印象に残っている。そして、「何でサラリーマンなんかになんなきゃいけないんだろう」と疑問を抱きながら、地図帳を開いては、「将来は海外に出たいなぁ」と見知らぬ土地への思いをはせていた。

私の海外脱出は、誰から提案されたわけでもない。自分で選び、自分で決めた。

あなたは?

日本がヤバイではなく、世界がオモシロイから僕らは動く。

日本がヤバイではなく、世界がオモシロイから僕らは動く。

▲kidle Unlimited対象本(2017/01/27現在) 日本がヤバいのは事実なんだけど、世界に目を向けてみよう

WELQまとめサイト騒動に見る劣化した日本のネット

「悪貨は良貨を駆逐する」—これを地で行くような出来事がネット上で起こっている。先日、DeNAが運営する医療情報まとめサイト「WELQ」で、大量の転載記事や虚偽の記事が掲載されていることが明らかになった。私は、日本のネットは劣化したなぁと改めて感じた。

実に残念なことだが、日本語でGoogle検索をすれば、まとめサイト(Naverまとめ、2ch系まとめ、Togetterなど)と質問サイト(知恵袋、教えてgooなど)など、質が高いとはいえないサイトが数多くヒットする。

なぜ、このようなことなってしまったのだろうか。

  • ネット利用者のITリテラシーが低い。
  • 無料コンテンツの需要が高い。
  • 匿名志向が強いため、文責が曖昧。(海外では署名記事が当たり前)
  • 誰でも簡単に情報発信でき、閲覧数に比例して広告収入を得られるため、質の低い情報が蔓延するようになった。

こんなところだろう。

ネットは誰でも情報発信できる

PCでライティング従来は大衆への情報発信はプロの特権だった。しかし、ネットでは、個人でも比較的簡単にコンテンツ(サイト)を作ることができ、広告収入を得ることもできる。コンテンツの閲覧数(アクセス数)が多いほど広告収入も増える。

閲覧数を増やすには、多くの人が求めているコンテンツを提供し、検索サイトの上位に表示されるようにすればよい。検索サイトの上位に表示させるテクニックをSEOと呼ばれているが、これは少し勉強すれば身につく程度のものだ。

医療に関して素人であっても、医療情報サイトを作り、検索サイトの上位に表示させることも可能である。

自分の言葉で文章を書くのは大変なので、第三者のコンテンツを転載したり、クラウドソーシングで1文字1円以下という格安で、プロではない人に書かせたりする。そうやって作った質の低いコンテンツに、人目を引きやすい見出しを付けて、ネットで公開する。

その結果、ネット上にはびこるのは、質の低いまとめサイトばかりになってしまった。まさに「悪貨は良貨を駆逐する」である。

低質なコンテンツはこうして拡散する

ニュースサイトが提供する記事は、ポータルサイトやスマホのニュースアプリにも配信され、さらに多くのネット利用者に行き渡る。元となるニュースサイトの運営会社が、新聞社やテレビ局のような既存メディアであれば、信用性は比較的高い。しかし、新興ニュースサイトの場合、広告収入だけが頼りであり、業者間の競争も激しいため、閲覧数を稼ぐこと(=拡散させること)ばかりが優先され、正確性や信頼性がなおざりになってしまうことが多い。

また、「ヤフー知恵袋」などの質問サイトにおいても、少し詳しい程度の人がネット検索し、それに多少のアレンジを加えて回答しているケースが多い。回答のために参照するサイトが信憑性の低い場合、当然寄せられる回答もいい加減なものになる。そして、それが検索サイトの上位に来て、多くの人がそれを参考にしたり、シェアしたりすることで、拡散していくことになる。

質問サイト以外では、ニュースサイトのコメント欄、ニュースサイトをソースにした匿名掲示板の書き込み、SNSでの言及が「ネットの反応」としてまとめられ拡散する。

ネット情報に眉唾になろう

近い将来、人工知能(AI)の発達したり、検索結果のランク付けの仕組みが変わったりすることで、信頼性の低いコンテンツは淘汰されるだろう。しかし、それに至るまでは、まだ時間がかかる。だから、ネットを利用する者が、ITリテラシーを高め、信憑性が怪しいネット情報に対して、眉唾になる以外に道はない。

それからもう1つ。良質なコンテンツを作るには、それなりのコストがかかるということを忘れるべきではないと私は思っている。信頼性を高めるためには、医師・弁護士など専門家の監修を受けたり、関係者にアポを取って取材したり、時に直接現地に赴いて調査したりといったことは不可欠だ。それなりのコストがかかってしまう。

多くのネット利用者は無料コンテンツに慣れきっているが、きちんとしたものに課金するという選択肢も持ってほしいと思っている。良い食材を手に入れたいなら、それなりの対価を払うのと同様に。

海外ではどうなっているのか?

海外(英語圏)では、何かを検索すると、まとめサイトや質問サイトばかりヒットするということはない。特に、医療情報は人命に関わり、訴訟リスクもあるので、提供しているのはきちんとした大きい会社が多い。

英国を例に取ると、症状や病名を検索すると、NHS(国民健康保険)のサイトが上位に表示され、分かりやすい英語で書かれている。日本でも、厚労省あたりが、子供から高齢者まで使いやすい医療情報ポータルを作るのはありではないかと思っている。質の高い医療情報提供は、国民全体が利益を受ける福祉政策であり、税金を投入すべき方向として間違っていない。

胡散臭いまとめサイトの跋扈を許している日本のネットは、ガラパゴス化しているし、恥ずべきことであると思う。

Googleの検索結果が、まとめサイトや知恵袋ばかりでうんざりしている人は、それらを最初から除外したノイズレスサーチがあるので、試してみるのもありだろう。

ウェブニュース一億総バカ時代 (双葉新書)

ウェブニュース一億総バカ時代 (双葉新書)

取り返しが付かない状態に陥る前に……

有名な詩であるが、マルティン・ニーメラーの引用しよう。

彼らが最初、共産主義者を攻撃したとき

ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。
けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。
けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、
そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。
そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。

ナチスが迫害対象を拡大していく様に不安を抱きつつも、自分には関係ないと知らんぷりを決め込んでいたら、火の粉が降りかかってきたとき、取り返しが付かない状態になっていたという話である。教訓的な話のため、多方面で引用されている。

ヒトラー

日本は多くの方面で、これと同じ状況に直面しているのではないだろうか?

少子高齢化:机上の議論→気付いたら深刻な人手不足・自治体消滅

人口減・自治体消滅・人手不足・介護難民・地方創生・一億総活躍といった言葉は今や日本中で使われている。人口減は降って湧いてきた問題なのだろうか?いや、違う。10年以上も前から言われていたことだ。日本の人口が減少に転じたのは2007年のことであるが、それよりもはるか以前から少子高齢化は取り沙汰されていた。

ヘイトスピーチ:匿名掲示板の戯れ言→国際問題・社会問題

ヘイトスピーチといえば、最近は若干なりをひそめたとはいえ、まだ沈静化したとは言いがたい。そんなヘイトスピーチであるが、かつて「嫌韓」というのはネット界隈、しかも匿名掲示板のごく一部の過激なネットユーザーによるものでしかなかった。しかし、今はどうか。海外メディアに取り上げられる、国連が勧告する無視できない大きな国際問題になっている。

過激な保守的思想の持ち主は日本人全体の1%程度である。ほんのちょっと前までは、もっと少なく0.1%程度であったのではないか。

憲法改正:絵空事→改憲勢力が衆参両院で3分の2

いよいよゾッとするような憲法改正が現実味を帯びてきた。改憲といえば、少し前までは絵空事であった。国民投票のための法律すらなく、改憲派が衆参両院で3分の2を超えるというのも考えられなかった。

もちろん、憲法を改正することは何ら悪いことではない。あくまでも「改正」あるならだ。自民党の改憲案を見ている限り、酷いの一言だ。「日本を取り戻す」とは「国民から主権を取り戻す」という意味なのだろうと思わずにはいられない。

「9条の改憲ではないから」とか「国民投票があるじゃないか」とかと高をくくっていると、後悔することになるかもしれない。自民党がもくろむ「緊急事態条項」は、ナチスの全権委任法とそっくり重なり、極めて危険である。(そういえば、麻生副総理も「ナチに習ってはどうか」と発言していた) 国民投票があるじゃないかと思う人もいるだろう。先日の英国のEU離脱を問う国民投票で、不利とみられていた離脱派が僅差だが勝利したことを思い出して欲しい。離脱に賛成票を入れた人も後悔している人がいる。国民投票のやり直しを求める署名も400万を超えた。

フリーター:いつかは正社員→いつまでもフリーター

フリーターという言葉が出てきた当初は、「新卒入社で終身雇用という既存の働き方にとらわれない自由を謳歌する若者」というイメージがあった。今ではいいイメージはない。多くのフリーターが「頑張って働いていればいつかは上の人に認めてもらえて社員登用してくれるさ」と信じ続けて、10年20年という年月が流れた。彼らの多くは未だにフリーターのまま。多くの企業は、アルバイトを正社員にするつもりなんかない。非正規雇用労働者の割合は増え続け、ついには全労働者の4割に達した。正規雇用と非正規雇用の賃金格差も相変わらずだ。

生活保護受給者バッシングの末路 (架空ストーリー)

生活保護というと、なぜか日本ではバッシングの対象になる。生活保護は、「国民が健康で文化的な最低限度の生活」を送るための最後の砦だ。誰もが生活保護を必要とする状況に転落するかは分からない。

生活保護をネットで叩いている人をモデルケースに架空のストーリーを仕上げてみた。

私が最初、生活保護受給者を攻撃したとき

僕は47歳、都内の大手企業に勤務、年収は600万円、妻子がいる。

僕は、ネットで「真実」なるものを知った。
在日韓国・朝鮮人を「在日帰れ」と言って排斥した。
マスコミを「マスゴミ」と呼んで攻撃した。
イラク人質で「自己責任」と叫んで叩いた。
生活保護受給者を「甘えだ」と責めた。

ある日、僕の会社が不祥事を起こし業績が悪化。リストラされ、僕は失業した。

再就職活動を始めたが、この歳ではどこもかしこも不採用。
そこで初めて、僕に能力があるわけではなく、たまたま時代が良かったから就職できたに過ぎないことを知った。

正社員の職にありつけないので、仕方なく派遣の仕事に就いた。時給はわずか900円。1日8時間フルタイムで働いても、給料は会社員時代の3分の1にも満たない。
長年デスクワークに就いてきて、運動不足ですっかりなまった身体に肉体労働は応える。
職場では、年齢が僕の半分のフリーターと思われる若者も働いていた。体力面では彼らにはかなわない。

ある日、あまりの激務に身体を壊して働けなくなってしまった。
にっちもさっちもいかなくなり、生活保護の受給を検討し始めた。

ネットで情報収集を始める。インストールしている掲示板アプリの書き込み履歴というボタンがあったので、何気なくそれを開いてみた。
生活保護を「ナマポ」と言い換え、「自己責任だ」「甘えだ」と受給者を執拗にバッシングしている僕の過去の書き込みが目にとまった」

生活保護受給者に対する世間の鋭いまなざしから、水際作戦が始まっていた。
僕は、役所に足を運んだものの申請すらさせてもらえなかった。

これは架空のストーリーであるが、ありえない話ではない。むしろ、すべての人が貧困に陥る可能性をはらんでいる。(ネットで執拗に弱者を攻撃している人、他人事じゃないんですよ)

取り返しが付く時に

時間はまだまだあるんだと思って、先送り先送りしていると……。
自分には関係ないと思って、見て見ぬふりをしていると……。

気がついたときには、取り返しが付かない状態になっていた。

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

必要は発明の母—原発に頼れないという必要性が原発ゼロで二度の夏を乗り切らせた

今年の夏は猛暑になりそうである。*1早くも先日は日本各地で猛暑日を記録した。例年以上の電力需要が見込まれているのだが、今夏は節電目標は設定されていない。原発は鹿児島県の川内原発を除いては一基も再稼働していないにも関わらず。巨大な首都圏を抱える東日本(50Hz地域)で稼働中の原発はゼロである。観測史上最高の猛暑が予想される2016年夏を原発ゼロ&節電要請なしで乗り切ろうとしている

なんだ、原発がなくても日本は全然行けてるじゃないか。

原発ゼロでも全然OKな日本

私は当初は再稼働に消極的賛成の立場であった。日本の発電量の3割を占めていると言われた原発を停止することで、

  • 節電と呼びかけることで高齢者の熱中症が増えて、彼らの命を危険にさらすのではないか。
  • 計画停電になることによる交通事故が増えるのではないか。それに伴う経済的損失も相当あるのではないか。
  • 温室効果ガス排出量の増加するのではないか。

というようなことが起こるのではないかと懸念していたからである。私が心配していたことは杞憂に終わった。

熱中症で搬送される件数は、多くの原発がフル稼働していた2010年より減っている。震災があった2011年の夏を除いては計画停電はされていない。電力会社のでんき予報を見ていても、需要が逼迫した状況には一度も陥っていなかった。綱渡りだったことは事実だが。温室効果ガスの排出量も減少に転じている。*2

日本SUGEEEEEEEEEE!!

なぜ、原発ゼロで二度の夏を乗り切ることができたのだろうか?それだけ節電が定着したということである。つまり、日本国民が努力したわけだ。節電に協力したあなたも、その1人である。

  • まだ使える電球1個をLEDに変えた。
  • まだ耐用年数が残っているのに、省エネ家電への買い換えた。
  • 食事が終わったらさっそうと自室に戻っていた子供が、リビングで過ごすようになった。(エアコン稼働数が減ることで節電)
  • 日中の暑い時間帯は、図書館や公民館やカフェなどの公共の場所で過ごすようになった。(エアコン稼働数が減ることで節電)
  • エアコンの設定温度を上げた
  • クールビズがより定着した。

原子力発電所電力会社側も指をくわえて見ていたわけではない。効率の良い火力発電所の導入したというニュース*3も以前耳にした。値上げに値上げを繰り返していては消費者の理解は得られないからだ。

「原発には頼れないし、頼りたくない。だけど停電は困る」という状況が日本中に「節電しよう」という空気を生み、結果として節電が定着した。それだけでなく、電力会社一社で担っていた発送電も分離され、多くの企業が参入できるようになった。従来の電力会社の電力会社の宣伝もよく目に付く。

原発に頼れない状況という必要性が、節電を定着させ、さらには電力自由化を実現させた。「必要は発明の母」ということわざがあるが、まさに日本は国ぐるみで実証してみせたのである。すごいじゃないか。私は誇っていいと思う。

原発ゼロでも乗り切れたのだから、このまま脱原発へと一気に舵を切ればいいじゃないか。私はそう思うのだが、どうやら自民党はそのつもりは毛頭ないようである。世論調査では再稼働反対が未だに賛成を上回っているのだが。*4*5(選挙という名のカーブが近づけばタイミングよくブレーキがかかって、終わればまた暴走し始まる自民党って自動運転車みたい)

自民党の公約、覚えてる?

あなたは、2012年12月の衆院選における自民党の公約を覚えているだろうか?

【エネルギー】全てのエネルギーの可能性を掘り起こし、社会・経済活動を維持するための電力を確実に確保するとともに、原子力に依存しなくても良い経済・社会構造の確立を目指す

2012年の選挙公約で、自民党は「原子力に依存しなくても良い」=「脱原発を目指す」と断言していた。2016年現在、原発稼働ほぼゼロで、猛暑予想なのに節電目標もなし。「原子力に依存しなくても良い経済・社会構造の確立」は実現しつつある。それにもかかわらず、脱原発の声が小さくなっているのをいいことを、自民党は次々と再稼働をもくろんでいる。高速増殖炉もんじゅも事実上の存続が決まったし。

原発イラネ! ついでに自民党もイラネ!

なんとなく、SNSに「いいね!」ではなく、「イラネ!」もあったらなぁと思った。イラネがあったら、原発イラネ!を真っ先に押したい。これ以外にも押したいものを列挙すると…

自民党イラネ!安倍首相イラネ!、ブラック企業イラネ!、社畜イラネ!

こんなところだろうか。消せるかどうかは日本人次第。

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか

炎上上等で行こう

ネットの炎上事例は右肩上がりである。炎上させているコメントを含めて、ネットユーザーによる言及は、「ネットの反応」「ネットの声」などと言われている。私はそんなものは、基本的にスルーしてかまわないと思っている。それらは、しょせん観客席のごく一部の観客から飛ばされるヤジに過ぎない。ネットの反応なんかに振り回されていれば、「船頭多くして船山に上る」のようになってしまう。

「ネットの反応」はしょせんノイジーマイノリティー

ネットの反応は、物言わぬ大多数の人(サイレントマジョリティー)の声を代弁するものではなく、ごく一部の過激な声(ノイジーマイノリティー)に過ぎない。*1日本人のわずか1%に過ぎない希有な価値観の持ち主でも、日本全体でみればざっと100万人はいることになる。さらにその1%が過激な言動を取る傾向があるとすると、その数は約1万人である。その1万人のうち、アクティブな層を1%とすると100人、0.1%だとするとわずか10人。

炎上というと、非常にたくさんの人が怒っていて、物言わぬ大多数の人の声を代弁しているようにみえるがそうではない。匿名掲示板で専用スレッドがあって誰かをウォッチ(という名の粘着)していても、投稿している人は数人だったというのはよくある話だ。中には、1人で10以上ものアカウントを使い分けて、執拗に攻撃していたというケースもある。IPアドレスを調べると、全部同じだったという。わざわざ文句を言うためだけに、架空アカウントをいくつも作るってどれだけ暇なんだかと思ってしまうけど、暇なのであろう。

インターネットは永遠にリアル社会を超えられない (ディスカヴァー携書)

インターネットは永遠にリアル社会を超えられない (ディスカヴァー携書)

ネットの反応なんか完全スルーでOK

企業にせよ個人にせよ、ネットで情報発信する以上、炎上リスクは常につきまとう。炎上とまでは行かなくても、とやかく批判されることは避けて通れない。しかし、私に言わせれば、炎上も批判も過度に恐れる必要はない。

もし炎上した場合、一応炎上の原因となった言動を振り返ってみる。自分の言動に明らかに問題あった(犯罪・差別・反社会的な行為など)ならば、その時は素直に非を認めて謝った方がよいだろう。しかし、自分の行動に非がなく、価値観の相違や「不謹慎です!」といったくだらない言い掛かりのようなものであればスルーでよい。前回の記事でも書いたが、人間は分かり合えないのだから。

こんなことを書くと、「批判に真摯に向き合うことが大切」という声があるが、「あちらに配慮、こちらに配慮」なんてことをしていれば、しまいには何も言えなくなってしまう。だから私は、批判はノイズと切り捨てて構わないと思っている。あえて向き合うべき声とスルーすべき声の線引きするとすれば、スルーすべきは「ネットの反応」「匿名のもの」「感情的なもの」「ぞんざいな言い方」の3つぐらいに当てはまるものといったところだろう。

強い信念を持って本気で動いている人は、実名を使ってくるし、ネットの中だけに籠もらず訪問とか手紙とかの手段も使ってくる。さらに、相手にも動いてほしい場合は、最低限の礼儀を持って接してくるものだ。

匿名でネットで騒いでいる連中は、騒ぎたいだけか、ストレスを解消したいだけかの連中なので、スルーしていればやがて飽きて去って行く。彼らの大半はネット弁慶なので、ネットの外では行動力は高くはない。犯行予告や脅迫など悪質なケースであれば、被害届を出せばよい。

『ウェブはバカと暇人のもの』の著者である中川淳一郎さんの言葉を借りれば、炎上させている人たちは、まさに「バカと暇人」「イタい人」である。

ウェブを炎上させるイタい人たち-面妖なネット原理主義者の「いなし方」 (宝島社新書 307)

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炎上上等で行こう

炎上ネットで情報を発信するならば、炎上を恐れるどころか、逆に「炎上上等だ!かかってこいやネット弁慶共」「そんなに言うなら、素性明かして面と面を合わせて徹底的にディベートしようぜ!全世界に生中継してさ」ぐらいの気持ちで情報発信しよう。(実際に「直接会って素性を明かしてお話ししませんか?」と言えば、十中八九「忙しいから」って返ってきそう)

もちろん犯罪行為をしたり、差別発言をしたり、冷蔵庫に入ったりするような非常識なことは慎むべきだが、そうでないのであれば、あなたの信念と正義と直感を信じて、自分が信じる道を行こう

企業アカウントの中の人、個人ブロガーの皆さん、炎上なんか恐れちゃダメですよ。炎上を恐れてコンテンツ作りや情報発信をどんどん萎縮するようになれば、何も言えない息苦しくてつまらない世の中になってしまいます。

いつも思うのだが、炎上させている人たちはその怒りのエネルギーを他のことに向けたらいいのに。炎上は「許せない」が動機*2だというが、短気は損気。短気の人はDNAの老化が早いそう。*3

ネット上のキラたちも困ったものだ。

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

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「ネットの悪意」の正体と構造

くだらないことでの炎上・ヘイトスピーチ・誹謗中傷・罵詈雑言・ネット私刑…。ネット上にはありとあらゆる「悪意」があふれている。今回は、その「悪意」の正体と構造について書いてみた。

「悪意」を撒き散らす主体は……匿名のどうしようもないおっさん

ネットの悪意世間では、ネットで悪態を吐いているのは「中高生から20代・30代の比較的若い世代のうち、学校・社会に溶け込めない男性が中心」という認識が強い。しかし、その正体は「おっさん」である。もちろん、そういうことをする輩は、前述のようなニートを含め、老若男女を問わず存在しているが、中年男性が突出している。(以前は謎に包まれていたが、ビッグデータの分析で明らかになってきた)

今の若い人たちは、もっとマイルドで、政治的にはリベラルである。

※夫婦別姓や同性婚などの保守派が眉をひそめそうなことも、若年層ほど容認する傾向が強い。*1

リア充の若年層は、「マイルドヤンキー」と呼ばれ、中高生時代からの仲間と連んで、贅沢はしなくても、彼らなりに楽しく過ごしている。非リアの若年層は、ネットで気が合う人とだけゆるく繋がっていて、本やゲームや動画で静かに過ごしている。双方とも、ネットを活用しているが、スルーとアンフォローを上手に使いこなしている。そこからは「意に反する意見があれば、見なければいい」「反論コメントを送って事を荒げたくない」という思惑がある。*2 この辺りが草食系とかマイルドとかと言われるゆえんであろうか。

スルーできずに、わざわざ人様のブログやSNSにまで押しかけていって、匿名で汚い言葉をまき散らすのは中年のおっさんが圧倒的だ。*3*4*5 いやはや、困ったものですねぇ。

幸せそうには見えない人たち

具体的にいうと、学歴・所得・配偶者の有無に関係なく、充足感・幸福感を感じていない人たちである。大学を出て、高給取りのホワイトカラーで、所帯を持っている人も少なくない。*6

「えっ!? そんな社会的ステータスが立派な大人が、ネットで匿名で暴れ回っているの? 一体何故?」と思う人もいるだろう。おそらく、仕事・家族関連で何かしらの問題を抱えているのではないか。

仕事がうまく行っていなかったり、連日連夜の激務で身も心もぼろぼろになっていたり、人間関係で疲れ果てていたり、独身で結婚は絶望的であったり、既婚でも家庭で妻子から蔑ろにされていたり、子育てが上手くいっていなかったり、親の介護の問題を抱えていたり…。個々人のプライベートを調べる術はないが、事情は様々だ。

首都圏の40代・50代の妻子持ちの男性の約半分が自宅に居場所がない自宅難民である*7というデータがあるが、これも無関係ではないだろう。(新婚当初はラブラブだったのだろうなぁ、入社当時は生き生きしていたのだろうなぁと思うとやるせない気持ちになる)

他者を貶めることが唯一のガス抜き手段

年齢に関係なく、生きていればストレスが溜まる。多くの人は、自分なりのストレス解消の手段を持っている。

若い世代であれば、友達と飲みに行ったり、カラオケに行ったり、スポーツしたり、旅行に行ったりと気分転換の手段はいくらでもある。付き合う人は選べるし、仕事だったら辞めればいい。友達がいなくても、独りで楽しむ「ソロ充」も増えている。

しかし、おっさんは、もう簡単に友達を作れる世代ではない。簡単に逃げられる世代・立場でもない。バブルの華やかな時代が忘れられない。今さら夢を追いかけることも、人生をやり直すだけの気力もない。毎日同じことの繰り返しで歳を取っていくだけである。そんな時、(自分基準のモノサシで)他者を蔑むことは、安価かつ手軽な麻薬のような役割を果たす。いつでもOK・どこでもOK・匿名でOKと三拍子揃ったネットは、それを可能にする強力なツールとなる。

バブル期に自分の能力とは無関係に入社でき、今は妻子から蔑ろにされているうだつが上がらないサラリーマンであっても、「正社員で既婚」という属性だけで、ニート・非正規雇用労働者・未婚者や生活保護受給者に対して、優越感を感じる。プライドもあるだろう。

逆に、自分より上の者には劣等感を抱く。年収・学歴自慢は、ネットでは炎上の鉄板ネタである。(人気ブロガーのイケダハヤトさんも、よくおっさんに絡まれているらしい)

ネットで傍若無人に振る舞う人間は、弱者・弱虫・卑怯者

ネットで悪態を吐く層が中年男性が突出してはいるが、すべての中年男性が悪意ある振る舞いをするわけではない。世の中の中年男性の大半は紳士である。悪態を吐いているのはごく一部だ。全体の1%に過ぎないマイノリティーでも、声が大きいだけに目立ってしまう。

私は思う、彼らは弱者であると。例え経済的には弱者ではなくても、精神的には弱者である。弱虫なのだ。弱いから、ナショナリズムにすがる。弱いから、自分より弱い者を叩く。弱いから、自分の間違いを認められない。弱いから、自分の弱さを受け入れられない。

本当に強い人間は、どれだけストレスが溜まっていても、どれだけ不遇でも、どれだけリベラル派に不信感を持っていても、ネット・リアルを問わず、ヘイトスピーチや誹謗中傷はしない。また、本当に賢い人間は、議論をするとき、相手の人格と意見を使い分ける。誰かに意見を言うときも、言葉は慎重に選んでいる。

どうすればいいのか?

小さい子供だったら、言い聞かせることができる。若い世代であれば、リア充にすることでフェードアウトさせることができる。(楽しいことなんていっぱいあるしね)

おっさんの場合は……、説得でどうにかできるものであれば苦労はないし、リア充にすることも難しいし、専門医に診てもらうことを勧めてもプライドが高いだけに逆効果であろうし、どうにもこうにもならない。(該当する人がこの記事を読めば、瞬間湯沸かし器となって私のあら探しを始めることだろう)

結局、私たちにできることはスルーすることである。「あーあ、いい歳こいたおっさんが、○○厨・ブサヨ・ナマポなどと程度の低いネット用語使って匿名で暴れ回ってるよ。それが唯一のストレス発散の手段なんだぁ。俺はこういうおっさんにはならないぞ」と反面教師にするぐらい。

ただ、ネットに横たわる悪意の根底には日本が抱える、止まらない凋落、劣悪な労働環境・家族の問題・親の介護・子供のニートといった数多くの問題が潜んでいることを忘れるべきではない。

呪いの時代 (新潮文庫)

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©2018 だから僕は海外に出る、さあ君も by 佐野由自