だから僕は海外に出る、さあ君も

「日本って何か変だなぁ」という疑問を胸に、思い切って海外脱出した著者が、海外からの視点で日本の社会問題や海外脱出アドバイスを綴るブログ。日本の奴隷的な長時間労働にうんざりしている人、ナショナリズム台頭・人口減・財政難の日本の行く末を危惧している人、協調性という名の同調圧力に耐えられない人、とにかく自分の殻を破ろうと思っている人、そんなあなたに『海外に出ること』を選択肢の1つとして提案する。

だから僕は海外に出る、さあ君も - ニートのガラパゴス日本脱出日記

ガラパゴス化している日本の奴隷的な労働環境と保守的な社会構造に適応できずに海外脱出したニートが海外視点で綴るブログ

仕事なんかクソだろ? 就活やめて日本を出よう! 奴隷やめて海外に出よう! 語学を学び世界に出よう! 「仕事なんてクソだろ」が売り文句の「ニートの海外就職日記」に影響を受けた、あるニートのブログ

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「ネット民」という残念な人たち

下の画像は、以前に「ネット住人」と何気なくGoogleで検索しようとした結果である。嫌われていることが一目瞭然だ。(「ネット民」「ネット住民」でもほぼ同じ)

「ネット住人」のGoogle検索サジェスト

ネット民──名前欄には「名無し」「通りすがり」といったあからさまな捨てハンや匿名アカウントを使い、二人称は「お前」「てめぇ」、そして「○○厨」「ナマポ」「パヨク」「アスペ」「DQN」といった程度の低いネット用語をまき散らしながら、我こそが正義とばかりに傍若無人に暴れ回る、ちょっと、いや、かなり困った人たち。──嫌われない方がおかしい。

この記事を書いているさなか、ACジャパンが、そんなネット民たちを風刺したインパクトが強い広告(TV・ラジオ・新聞)を展開し、話題になっている。非常に秀逸なので、一度見てもらいたい。

ACジャパンのネット炎上批判の広告動画

俺たちは「正しい」??

よくネット民が自分たちの言動を正当化する口実として、「俺たちが言っていることは『正しい』」がある。論理的に正しいか否かと訊かれれば、「正しい」こともある。しかし、真面目なブログや実名を出している専門家に対して、呪詛に満ちた言葉を投げかけている様からは、相手に対するリスペクトは微塵も感じられない。もし、相手を説得したり、世の中を流れを変えたりしたい考えているならば、彼らのような物言いはまったく逆効果である。私には、匿名をいいことに、独り善がりな正義感に酔いしれている「御山の大将」にしか見えない。(禁煙場所で喫煙している人をスタッフが注意することは正しいが、その時でも「てめぇ、ここは禁煙だろうが。字が読めねえのかよ!?」と言わないのと同じだ)

残念な「ネット民」が減らない理由

これだけ嫌われているにも関わらず、ネットで悪態をつく残念なネット民は一向に減らない。その理由はどこにあるのだろうか?──それは、叩くことに快感を覚える「バッシング中毒」になっているか、あるいは、ストレス発散の手段がそれしかないからであろう。

誰かのあら探しをしたり、誹謗中傷したり、(御託を並べて)論破したり、暴言を吐いたり、あるいは、自分より下の者を貶めたりすることは気持ちがいい。なぜなら、それによって、溜飲を下げたり、優越感を感じたりできるからだ。

しかし、現実世界ではなかなかこうはいかない。現実世界で、イライラするからといって、見ず知らずの人にいきなり暴言を吐けば、殴り合いの喧嘩に発展するかもしれない。会社・学校であら探しばかりしていると、自分に対する周囲の評価が下がってしまう。現実世界で、他人より優位に立ったり、他人から認められたりしようとすれば、目に見える結果を出す以外に道はないのだが、相応の努力が必要だ。(以下の過去記事も参考)

他方、ネット空間は匿名である。よほど悪質でない限り、特定されて責任を問われる可能性は低い。また、自分より下の者も簡単に見つかる。

※ 他人と自分を比較する物差しは何でもよい。学歴、収入、恋愛経験、実家暮らしか自活か、既婚未婚、SNS充実度……etc。

ネット特有の「狭い繋がり」が、「自分は正しい」を増幅させる

さらに、これらに拍車をかけているのが、ネット特有の「狭い繋がり」だ。

SNSやブログであれば、多かれ少なかれフォロワーや読者がいる。掲示板であれば、足繁く通っている「住人」がいる。誰をフォローするのか、どのブログの読者になるのか、それを決めるのは自分である。そのため、多くの人は、自身の考えに近かったり、共通の趣味が合ったりする人をフォローする。そうなると、目にするのは、自分にとって心地いい情報が多くなる。また、同じ価値観を持つ人が集まっているので、必然的に自分のコメントにも、イイネが付いたり、シェアされたりするしやすくなる。時には、「よくぞ○○を論破してくださいました。さすがですね」「僕もそう思っていました!」といった同意や賞賛のコメントが付くこともあるだろう。逆に、意に反するコメントやユーザーは、ボタン1つで簡単にブロックできる。その結果、どうなっていくのか?──「裸の王様」のようになってしまう人が出てくる。

はだかの おうさま【裸の王様】
〔アンデルセン童話の題名から〕 直言する人がいないために、自分に都合のいいことだけを信じ、真実を見誤っている高位の人を揶揄する表現。「理事長は今や―だ」
スーパー大辞林3.0 (C) Sanseido Co.,Ltd. 2010

こういう現象のことを、「エコーチェンバー現象」という。昨年(2016年)11月のトランプ氏当選にも影響を与えた。

「残念なネット民」にならないために……

ここまで「残念なネット民」について書いてきたわけだが、実は、誰もが「残念なネット民」になる要素を有している。あなたのブログやSNSに批判コメントが投稿され、ついついそれに反論してしまい、気が付いたら汚い言葉による応酬になっていた、というようなケースだ。端から見れば、あなたも立派な「残念なネット民」である。

では、そうならないためには、どうすればいいのだろうか?

私は、「自分とは違う考え方がある」ということを肝に銘じ、それを尊重することではないかと思っている。どうしてもそれが受け入れられず、口論になりそう、あるいは、なってしまった時は、アメリカの人気作家スティーヴン・キングが言った、次のことを思い出すことを提案したい。

ウンコ投げ競争の優勝者は、手がいちばん汚れてない人間だ

スティーヴン・キング

この部分は、村上春樹さんも自身の著書(ムック)の中で引用していて、次のように述べている。

理不尽なことを言われたらどうする? (疑問67より)

村上春樹:「それはちょっとないだろうよ」というような理不尽なことを他人に言われる機会は、僕にも少なからずあります。

昔スティーヴン・キングが「ウンコ投げ競争の優勝者は、手が一番汚れていない人間だ」と言いました。つまり、どれだけ他人にウンコを投げて命中させるかが大事なのではなく、そんな無意味なことで手を汚さないのが人間の品格なんだ、それよりは自分がやるべきことをちゃんとやろうということです。あなたも頭にくることがあったら、このキングさんの言葉を思い浮かべられるといいと思います。

今、この瞬間も、嫌われていることに気付かず、ウンコ=汚い言葉を投げ合って消耗している「残念なネット民」が数多くいる。そして、そんな雑魚たちによる糞コメントが金魚の糞のようにネット社会の底に延延とこびりついている。

私たちは、彼らの土俵に上がらず、自分の時間を生きようではないか

もし、ここで書いたような「残念なネット民」がこの記事を読んだ場合、顔を真っ赤にして私のあら探しをし始めることだろう。そして、叩けるものが見つかったら、鬼の首を取ったように、クソリプという名のウンコを投げつけてくる。そう、それこそが「残念な行動」である。

人を動かす 文庫版

人を動かす 文庫版

より下へと向かう頽落現象が起きている今の社会に危機感を感じる

川の流れ 今の社会を見ていると、まるで川が上流から下流へ流れるように、知識や生き方など様々なものが、より下の方へと向かう頽落現象が起こっているように思える。とりわけネットを俯瞰していると、そういったことが否が応でも目に付く。

物事が進む方向というのは、上と下の2つに分けられる。

同士が集い、建設的な議論を重ねたり、互いに切磋琢磨したりすることで、より高次な方向を目指すことが上向き指向である。同士で集い、自分たちより弱い者を蔑んだり、自分たちより強い者を妬んで足を引っ張ったりすることが下向き指向である。

例えば、モテない人同士が集まるネットコミュニティーがあるとしよう。

  • 「なぜモテないのか」「モテるためにはどうしたらいいのか」と話し合い、時には実際に会って、お互いの改善点を議論し合う。
  • 「女ってクソだよな」「最近の男は……」といったように、女や男を非難するコメントがあふれ、それらには多数のイイネがつく。「リア充爆発しろ」はその典型例。

前者のような流れが上向き指向、後者のような流れが下向き指向である。

上向き指向の中では、「私ってダメだよね。もう諦めようかな」と弱気になれば、仲間から説得されたり、励まされたりすることで、ドロップアウトを防ぐ作用が働く。

下向き指向の中では、悪口が蔓延していて「そういうのやめようよ」と言うと、裏切り者のごとく叩かれ、場合によってはコミュニティーから排除される。下手をすれば、「お前もあいつらの差し金だな」と言いがかりをつけられる始末だ。

私たちの社会では、下向き指向になっている。

頽落現象がはびこっている理由

他人より優位に立ったり、他人から認められたりしたいという心情は人間なら誰もが持っているものだ。そして、それらを実現する方法は以下の2つしかない。

  • 自分が努力して、上に行くこと。
  • 自分より下のものを見つけ出して、彼らを軽蔑・嘲笑することで相対的に自分を高めること。

もちろん理想は前者だ。しかし、競争がどんどん激化して、努力しても努力しても報われない時代になっている。以前であれば10の努力で済んだことでも、今日では50も100も努力しなければならない

さらに日本特有の問題として、深刻な人口減と少子高齢化が現在進行形で進んでいる。労働時間は一向に減らないのに、日本の将来に明るい兆しが見えてこない。良くなるどころか、現状維持すらままならない。

視線は、上ではなく、下へと向いてしまう。

健常者は障がい者を、ホワイトカラーはブルーカラーを、正社員はフリーターを、フリーターはニートを、ニートは引きこもりを、大卒は高卒を、既婚者は未婚者を、自活している者は生活保護受給者を、性行為経験がある者はない者を、叩いたり、見下したり、嘲笑したりするといった具合だ。川が上流から下流へ流れるように、下の方へ下の方へと向かう頽落現象が起こっている。

ネット上でよく見かける、「童貞」「ナマポ」「DQN」「池沼」「Fラン」といった言葉からは、自分より弱い者(より正確には、自分より下であると自分基準のモノサシで規定したモノ)を貶めることで、自分を高く見せ、刹那的な自尊感情を満たしたいという心情が見え隠れする。そこからは、生産的・建設的な空気は微塵も感じられない。

学歴自慢や年収自慢は炎上しやすい話題だ。自慢する意図は無くても、自慢していると取られると激しいバッシングを受ける。ネット上で見かける「リア充死ね」も、その一種だろう。上の者に対する僻みや嫉妬が渦巻いているという事実を如実に示している。

そして、ほとんどすべての日本人が持っている自分のアイデンティティーは何かと言われれば、「日本国籍保有」というところに帰着する。ナショナリズムを信奉する人は、強大な国家と自分とを重ね合わせることで、自分を強く見せようとしている。ネットを中心に嫌韓・嫌中があふれ、テレビでは日本を礼賛する番組が目立つようになったのは、この事象を象徴づけているといえる。

ネット上でヘイトスピーチをする人はごく一部であるが、差別・憎悪・ナショナリズムの裾野は確実に広がっている。日本だけでなく、アメリカでもヨーロッパでもアジアでも。

そういう空気が世の中に蔓延していて、それで社会が良い方向に進むのだろうか?

どうすればいいのか?

解決方法が見当たらない。「解決しよう」と言えば言うほど、疎まれ、反感を買うのが今の世の中だ。「反知性主義」である。反知性主義がはびこる世の中で、自由を愛する人の声は、下流へ向けて流れる濁流の轟音にかき消されそうになっている。

「貧すれば鈍する」ということわざがある。貧しくなれば、世俗的な苦労が多い故に品性が鈍ってくるという意味だ。「衣食足りて礼節を知る」ということわざもある。生活が豊かになって初めて道徳心が高まるという意味だ。例え方こそ180度違うが、意味は同じだ。このことわざを地で行くようなことが起こっている。

私たちにできるせめてものことは、他者への思いやりを忘れないことと、教養を身につけること(手っ取り早い方法は読書)ぐらいか。そして、(無駄かもしれないが)声を上げること。

ナショナリズムの行き着く先は、、、。

がちナショナリズム: 「愛国者」たちの不安の正体 (ちくま新書)

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WELQまとめサイト騒動に見る劣化した日本のネット

「悪貨は良貨を駆逐する」—これを地で行くような出来事がネット上で起こっている。先日、DeNAが運営する医療情報まとめサイト「WELQ」で、大量の転載記事や虚偽の記事が掲載されていることが明らかになった。私は、日本のネットは劣化したなぁと改めて感じた。

実に残念なことだが、日本語でGoogle検索をすれば、まとめサイト(Naverまとめ、2ch系まとめ、Togetterなど)と質問サイト(知恵袋、教えてgooなど)など、質が高いとはいえないサイトが数多くヒットする。

なぜ、このようなことなってしまったのだろうか。

  • ネット利用者のITリテラシーが低い。
  • 無料コンテンツの需要が高い。
  • 匿名志向が強いため、文責が曖昧。(海外では署名記事が当たり前)
  • 誰でも簡単に情報発信でき、閲覧数に比例して広告収入を得られるため、質の低い情報が蔓延するようになった。

こんなところだろう。

ネットは誰でも情報発信できる

PCでライティング従来は大衆への情報発信はプロの特権だった。しかし、ネットでは、個人でも比較的簡単にコンテンツ(サイト)を作ることができ、広告収入を得ることもできる。コンテンツの閲覧数(アクセス数)が多いほど広告収入も増える。

閲覧数を増やすには、多くの人が求めているコンテンツを提供し、検索サイトの上位に表示されるようにすればよい。検索サイトの上位に表示させるテクニックをSEOと呼ばれているが、これは少し勉強すれば身につく程度のものだ。

医療に関して素人であっても、医療情報サイトを作り、検索サイトの上位に表示させることも可能である。

自分の言葉で文章を書くのは大変なので、第三者のコンテンツを転載したり、クラウドソーシングで1文字1円以下という格安で、プロではない人に書かせたりする。そうやって作った質の低いコンテンツに、人目を引きやすい見出しを付けて、ネットで公開する。

その結果、ネット上にはびこるのは、質の低いまとめサイトばかりになってしまった。まさに「悪貨は良貨を駆逐する」である。

低質なコンテンツはこうして拡散する

ニュースサイトが提供する記事は、ポータルサイトやスマホのニュースアプリにも配信され、さらに多くのネット利用者に行き渡る。元となるニュースサイトの運営会社が、新聞社やテレビ局のような既存メディアであれば、信用性は比較的高い。しかし、新興ニュースサイトの場合、広告収入だけが頼りであり、業者間の競争も激しいため、閲覧数を稼ぐこと(=拡散させること)ばかりが優先され、正確性や信頼性がなおざりになってしまうことが多い。

また、「ヤフー知恵袋」などの質問サイトにおいても、少し詳しい程度の人がネット検索し、それに多少のアレンジを加えて回答しているケースが多い。回答のために参照するサイトが信憑性の低い場合、当然寄せられる回答もいい加減なものになる。そして、それが検索サイトの上位に来て、多くの人がそれを参考にしたり、シェアしたりすることで、拡散していくことになる。

質問サイト以外では、ニュースサイトのコメント欄、ニュースサイトをソースにした匿名掲示板の書き込み、SNSでの言及が「ネットの反応」としてまとめられ拡散する。

ネット情報に眉唾になろう

近い将来、人工知能(AI)の発達したり、検索結果のランク付けの仕組みが変わったりすることで、信頼性の低いコンテンツは淘汰されるだろう。しかし、それに至るまでは、まだ時間がかかる。だから、ネットを利用する者が、ITリテラシーを高め、信憑性が怪しいネット情報に対して、眉唾になる以外に道はない。

それからもう1つ。良質なコンテンツを作るには、それなりのコストがかかるということを忘れるべきではないと私は思っている。信頼性を高めるためには、医師・弁護士など専門家の監修を受けたり、関係者にアポを取って取材したり、時に直接現地に赴いて調査したりといったことは不可欠だ。それなりのコストがかかってしまう。

多くのネット利用者は無料コンテンツに慣れきっているが、きちんとしたものに課金するという選択肢も持ってほしいと思っている。良い食材を手に入れたいなら、それなりの対価を払うのと同様に。

海外ではどうなっているのか?

海外(英語圏)では、何かを検索すると、まとめサイトや質問サイトばかりヒットするということはない。特に、医療情報は人命に関わり、訴訟リスクもあるので、提供しているのはきちんとした大きい会社が多い。

英国を例に取ると、症状や病名を検索すると、NHS(国民健康保険)のサイトが上位に表示され、分かりやすい英語で書かれている。日本でも、厚労省あたりが、子供から高齢者まで使いやすい医療情報ポータルを作るのはありではないかと思っている。質の高い医療情報提供は、国民全体が利益を受ける福祉政策であり、税金を投入すべき方向として間違っていない。

胡散臭いまとめサイトの跋扈を許している日本のネットは、ガラパゴス化しているし、恥ずべきことであると思う。

Googleの検索結果が、まとめサイトや知恵袋ばかりでうんざりしている人は、それらを最初から除外したノイズレスサーチがあるので、試してみるのもありだろう。

ウェブニュース一億総バカ時代 (双葉新書)

ウェブニュース一億総バカ時代 (双葉新書)

ヘイトクライムのピラミッド—差別と憎悪の裾野が広がっている

先月(7月26日)、神奈川県相模原市の障害者福祉施設で刃物を持った元職員が侵入し、障がい者19人を殺害するという戦後最悪の事件が起きた。この事件は海外でも大きく報じられた。

報道を見ていると、過去に起きた無差別大量殺傷事件と比べられていたが、今回の事件は、過去の無差別殺傷事件と異なり、「ヘイトクライム」である。

ヘイトクライム (hate crime)
憎悪に基づく犯罪。とりわけ人種・民族・宗教・セクシュアリティーなどに対する偏見や差別に基づくものをさす。憎悪犯罪。
スーパー大辞林3.0(C)Sanseido Co.,Ltd. 2010

ヘイトクライム(hate crime)やヘイトスピーチ(hate speech)の「ヘイト」(hate)とは、直訳すれば「憎悪」「憎む」「ひどく嫌う」という意味だが、この場合は、人種、宗教、出身、性別、国籍、性的指向、障がいの有無など能動的には変えられない属性によって、偏見を持ち、憎悪感を抱くという意味だ。

ネット・リアルを問わず公の場で言葉に出せば「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)であり、傷害・暴行・破壊などの刑事事件を起こせば「ヘイトクライム」(憎悪犯罪)である。

在日外国人を排斥を訴える言論ばかりがヘイトとして取り上げられがちだが、そればかりがヘイトではない。障がい者、性的少数者、被差別部落出身者に対する侮蔑表現も立派なヘイトである。

東京都知事選である候補者が「日本人に対するヘイトを禁止する」という公約を掲げていたが、「差別をやめろ」「レイシストは帰れ」というのは、「暴言」「乱暴な言葉」に当てはまることはあっても、ヘイトには当たらない。

差別の裾野が広がっている

以下の図は「ヘイト暴力のピラミッド」である。

ヘイト暴力のピラミッド

(ヘイト 「クライム」 「スピーチ」 京都事件 から見えること)

このピラミッドの図示は、アメリカの中学や高校などでよく用いられるものです。マイノリティに対する暴力行為というものが突発的に始まるようなものではなく、まずは、最下層の悪意なき先入観が社会に浸透していることが土壌となって、偏見に基づく具体的な行為が行われるようになり、さらにこうした行為の数が増えるなかで制度的な差別、そしてついには暴力行為が発生するようになり、当初は散発的なものが徐々に社会全体に蔓延するところまで発展していく、という概念です。

今の日本では上図とまったく同じことが起こっている。ほんの10年前までは、ヘイトスピーチ(マイノリティーや弱者へのバッシング)といえば、ネット界隈、それも匿名掲示板の一部の匿名ネットユーザーによるものでしかなかった。時間が経つにつれ、ヘイトスピーチは収まるどころか拡大の一途をたどっている。深刻な社会問題にまで発展したヘイトデモ、書店にあふれる日本礼賛・嫌中嫌韓書籍の多さを見ても明らかだ。

もうひとつ、このピラミッドを考えるうえで大切なことは、害悪をもたらす確率の観点です。すくなくとも、現状では差別発言や犯罪煽動があっても大半の人はそれを真に受けることはありません。しかし、ネットや報道を介して何十万、何百万人の人々が聞けば、人口確率的には0.1%や1万分の1であっても、どこかでこの言葉を実行に移す極端に過激な人物の心に響いてしまうかもしれません。たった一人でも実行に移す人が出てしまえば取り返しのつかない結果となってしまいます。

今回の事件は、まさにその「たった1人」が実行に移した。この背後には、少なくない数の偏見や憎悪がぐつぐつと煮えたぎっている。それらがいつまた吹きこぼれるかわからない。ネット上では、「言っていることは分かるが…」「障がい者はいない方がいい」という無知な声が散見される。そのような考え方を持っている人は、100人に1人いるかいないかのような超マイノリティーである。しかし、マイノリティー同士がネット上で繋がり、共鳴しあうことで、憎悪が増幅していくことは、日本のみならず海外でも現在進行形で起こっている。

「たった1人」が指導者となり、大衆を扇動し、人類史上希に見る大虐殺(ジェノサイド)に発展したのがナチスによるホロコーストである。

※ 現在、ドイツにおいてナチスを賞賛する表現や言論は厳しく取り締まられている。自由を守るために、自由を否定する自由とは闘うという考え方からだ。

ヘイトの根っこを絶たない限り……

今回の事件では、措置入院のあり方や防犯のあり方が主に問われている。しかし、それらよりも大切なことは、差別主義を生み出している土壌、それを黙認し、増幅させているものが今の日本に間違いなくあるということを認識することだ。そういったヘイトの根を絶たない限り、第二第三の事件が起こりうるし、ヒトラーのような人間が権力を掌握するという可能性もゼロではない。

残念なことに、今の日本社会を見ていると、差別に対して無知・無関心な人が少なくないように思える。ヘイトスピーチと反安保デモが同一視されていたり、差別と区別の違いが理解してなかったり人を見ていると。

排除と差別の社会学 (有斐閣選書)

排除と差別の社会学 (有斐閣選書)

炎上上等で行こう

ネットの炎上事例は右肩上がりである。炎上させているコメントを含めて、ネットユーザーによる言及は、「ネットの反応」「ネットの声」などと言われている。私はそんなものは、基本的にスルーしてかまわないと思っている。それらは、しょせん観客席のごく一部の観客から飛ばされるヤジに過ぎない。ネットの反応なんかに振り回されていれば、「船頭多くして船山に上る」のようになってしまう。

「ネットの反応」はしょせんノイジーマイノリティー

ネットの反応は、物言わぬ大多数の人(サイレントマジョリティー)の声を代弁するものではなく、ごく一部の過激な声(ノイジーマイノリティー)に過ぎない。*1日本人のわずか1%に過ぎない希有な価値観の持ち主でも、日本全体でみればざっと100万人はいることになる。さらにその1%が過激な言動を取る傾向があるとすると、その数は約1万人である。その1万人のうち、アクティブな層を1%とすると100人、0.1%だとするとわずか10人。

炎上というと、非常にたくさんの人が怒っていて、物言わぬ大多数の人の声を代弁しているようにみえるがそうではない。匿名掲示板で専用スレッドがあって誰かをウォッチ(という名の粘着)していても、投稿している人は数人だったというのはよくある話だ。中には、1人で10以上ものアカウントを使い分けて、執拗に攻撃していたというケースもある。IPアドレスを調べると、全部同じだったという。わざわざ文句を言うためだけに、架空アカウントをいくつも作るってどれだけ暇なんだかと思ってしまうけど、暇なのであろう。

インターネットは永遠にリアル社会を超えられない (ディスカヴァー携書)

インターネットは永遠にリアル社会を超えられない (ディスカヴァー携書)

ネットの反応なんか完全スルーでOK

企業にせよ個人にせよ、ネットで情報発信する以上、炎上リスクは常につきまとう。炎上とまでは行かなくても、とやかく批判されることは避けて通れない。しかし、私に言わせれば、炎上も批判も過度に恐れる必要はない。

もし炎上した場合、一応炎上の原因となった言動を振り返ってみる。自分の言動に明らかに問題あった(犯罪・差別・反社会的な行為など)ならば、その時は素直に非を認めて謝った方がよいだろう。しかし、自分の行動に非がなく、価値観の相違や「不謹慎です!」といったくだらない言い掛かりのようなものであればスルーでよい。前回の記事でも書いたが、人間は分かり合えないのだから。

こんなことを書くと、「批判に真摯に向き合うことが大切」という声があるが、「あちらに配慮、こちらに配慮」なんてことをしていれば、しまいには何も言えなくなってしまう。だから私は、批判はノイズと切り捨てて構わないと思っている。あえて向き合うべき声とスルーすべき声の線引きするとすれば、スルーすべきは「ネットの反応」「匿名のもの」「感情的なもの」「ぞんざいな言い方」の3つぐらいに当てはまるものといったところだろう。

強い信念を持って本気で動いている人は、実名を使ってくるし、ネットの中だけに籠もらず訪問とか手紙とかの手段も使ってくる。さらに、相手にも動いてほしい場合は、最低限の礼儀を持って接してくるものだ。

匿名でネットで騒いでいる連中は、騒ぎたいだけか、ストレスを解消したいだけかの連中なので、スルーしていればやがて飽きて去って行く。彼らの大半はネット弁慶なので、ネットの外では行動力は高くはない。犯行予告や脅迫など悪質なケースであれば、被害届を出せばよい。

『ウェブはバカと暇人のもの』の著者である中川淳一郎さんの言葉を借りれば、炎上させている人たちは、まさに「バカと暇人」「イタい人」である。

ウェブを炎上させるイタい人たち-面妖なネット原理主義者の「いなし方」 (宝島社新書 307)

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炎上上等で行こう

炎上ネットで情報を発信するならば、炎上を恐れるどころか、逆に「炎上上等だ!かかってこいやネット弁慶共」「そんなに言うなら、素性明かして面と面を合わせて徹底的にディベートしようぜ!全世界に生中継してさ」ぐらいの気持ちで情報発信しよう。(実際に「直接会って素性を明かしてお話ししませんか?」と言えば、十中八九「忙しいから」って返ってきそう)

もちろん犯罪行為をしたり、差別発言をしたり、冷蔵庫に入ったりするような非常識なことは慎むべきだが、そうでないのであれば、あなたの信念と正義と直感を信じて、自分が信じる道を行こう

企業アカウントの中の人、個人ブロガーの皆さん、炎上なんか恐れちゃダメですよ。炎上を恐れてコンテンツ作りや情報発信をどんどん萎縮するようになれば、何も言えない息苦しくてつまらない世の中になってしまいます。

いつも思うのだが、炎上させている人たちはその怒りのエネルギーを他のことに向けたらいいのに。炎上は「許せない」が動機*2だというが、短気は損気。短気の人はDNAの老化が早いそう。*3

ネット上のキラたちも困ったものだ。

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

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炎上の構造とスルーのすすめ—人はお互いに容易に分かり合えないものということを分かり合おう

人間は容易に分かり合えるものではない。簡単に理解し合えるなら、戦争もテロも起こっていないし、ネット炎上も起こっていない。今の私たちに欠けていることは、「お互いに分かり合えないということを分かり合う」ということであると思う。

現実の世界では価値観が180度異なる者同士が居合わせることはない

ネット(特にSNS)が一般的になる前は、価値観が相容れない者同士が同じ空間に居合わせるということは希だった。

子供は子供で、気が合う人同士でグループを作っている。

朝日新聞や雑誌「世界」を購読する人はリベラルが多いし、産経新聞や雑誌「正論」を購読する人は保守が多い。ましてや朝日新聞や産経新聞に入ろうとする人は、相当な強い意志を持ったリベラルか保守な人であることは想像に難くない。

阪神ファン御用達の居酒屋に巨人ファンが訪れることもないし、その逆もしかり。

このように、現実の世界では、価値観が比較的近い者同士でうまく棲み分けがなされており、一緒になるということは通常はない。仮に一緒になったとしても、触れない部分は触れないという暗黙の了解ができている。

ネットは価値観の垣根を取り除いた

翻ってネット空間ではどうだろうか? 価値観の垣根がほとんどといっていいほどない。フラットなのである。

例えば、中年サラリーマンが、「最近の若い奴は協調性がなってない。どれ、1つ説教でもしてやるか。何かいい言い方はないかな……」と「協調性」で検索をかける。そして、たまたま私のブログの以下の記事に行き着いたとしよう。

上記の記事では、「協調性」=「同調圧力」として、かなり批判的に書いている。「協調性が何より大事だ」と思っている人にとっては思わずムッとするかもしれない。当然、「こいつは聞き捨てにならない。一言言わないと気が済まない」という人も出てくる。

改憲に大賛成の人がいて、その人とSNSで繋がっている親友に護憲の人がいるとしよう。護憲の人が、かなり頻繁に護憲を訴えたり、そういったページをシェアしたりしていると、否が応でも、護憲の意見が目に付いてしまう。

このように、現実の世界では同じ空間に居合わせるはずのなかった人同士が、ネット上では同じ空間にいとも簡単に居合わせるようになった。従来、目にすることさえなかった自分の価値観に反する意見が、頻繁に目に付くようになった。さらにネット特有の特徴として、匿名性が高く物理的距離が離れている点があげられる。それゆえ、読んだ相手の神経を逆なでするような口調や侮蔑的なネット用語も少なくない。(現実の世界だと、言葉を選びながら話すけど、ネットだと……ハンドルを持つと変わってしまうのかなぁ) 言われた側も、つい乱暴な口調で言い返してしまう。売り言葉に買い言葉で乱暴な言葉の応酬が始まる。傍観していた野次馬も次々参戦。コミュニティーは荒れに荒れる。一方的に非難されるという展開になれば炎上である。

「あぁ、この人はこういう考えなんだね」とスルーできる力が必要

そこで必要になってくるのが、冒頭でも書いた「お互いに分かり合えないということを分かり合う」である。

「私は、あなたのその考え方には賛同することも、理解することもできない。しかし、その考え方に対して、私は反論はしないし、議論をするつもりはない。ただ、そのような考え方があるということを尊重する」

こういう考え方を誰もが持つことだ。相手の考えに賛成するわけでもなければ、否定して説得して変えてやろうとするわけでもない。それ以上はお互いに踏み込まないということだ。

現実の世界で、共通の趣味があり、すごく気が合う友達ができたとしよう。しかし、どれだけ馬が合っても、絶対にこれだけは譲れないというものは誰にだってある。例えば、相手がAKB48の大ファン、自分がアンチAKB48だとしたら……。例えば、相手がアンチ阪神の巨人ファン、自分がアンチ巨人の阪神ファンだとしたら……。

6、7割は気が合うのに、どうしても相容れない1割で、仲違いしてしまうことになったら、それは非常に残念なことだと思う。

価値観が一致する6割で仲良く、微妙な3割はお互い妥協しながら話し合う、喧嘩になるだけで噛み合わない1割はお互い踏み込まない。そういうことができる人が私は大人だと思う。ちなみにこれは結婚生活をうまく送ったり、外国人の友達を作ったりするコツでもある。

学級会や会議などで物事を1つに決めなければならない場所であれば、情理を尽くして話し合うということは大事なことだけど。

ネットでも同じ。そもそも人の価値観なんて簡単に変えられるものでもない。それに、ネット上の見ず知らずの赤の他人に噛みついて、言い負かしたとしても、結局は自己満足以外の何物でもない。議論が好きな人で、相手もそれを望むならそういう場所で好きなだけすればいい。(この手の議論は噛み合っておらず、罵り合いに発展しているケースが多々あり、端から見ると見苦しいだけなので、私は見ないし関わらない。完全スルー。)

近い将来、人工知能の発達により、検索結果から閲覧者にとっては不快な情報は排除したり、SNSの友達の投稿のうち避けたい話題は非表示にしたりできるようになるだろう。それまでは、スルー力を身につけるしかない

「不快にするような投稿をするな」という声もあるが、そもそもそんな投稿は不可能である。

https://twitter.com/MAMAAAAU/status/275189901253808128

「炎上!? ネット上の見ず知らずの赤の他人のことなんかどうでもいいじゃん。そんなことより明日海に行かない? BBQしよ!」ってな具合に、火を付けるべきは気に入らないブログではなく、美味しい肉を焼くための炭だ。

BBQ

ネット炎上の研究

ネット炎上の研究

日本の悪口をどんどん書いて日本を良くしていこう

何気なくテレビ番組表を見ていたら、外国人が日本を絶賛する番組が目に付いた。一瞬、「まだやってたのか……」と思ったが、これだけ長く続き、複数の局に似たような番組があるということは、そこそこ人気がある証拠なのだろう。

テレビ番組だけではない。ネット・リアルを問わずヘイトスピーチも相変わらずだし、書店には日本を褒める本が目立つ場所に平積みされている。

最初のうちは、ただのブームでいずれは収束するかなと思っていたのだが、ここまで来ると一過性のものとは思えない。

巷にあふれる「愛国ポルノ」が気持ち悪い

この手の本や番組のことを「愛国ポルノ」という人もいる。本物のポルノは自己満足のためのものであるが、「世界が絶賛する日本は凄い!」と愛国心をあおり、見た人が自己満足に浸るための本や番組などを「愛国ポルノ」と呼ぶことは、まさに言い得て妙である。

日本が好きな日本びいきの外国人ばかりを取材対象にして、その人がさりげなくつぶやいた「nice」や「cool」といったことを、大げさに「素晴らしいですね!」とテロップを付けている。日本に批判的な箇所はほとんどない。おそらく批判的な箇所はカットされているのだろう。

海外に住んでいる日本人を訪ねる番組もあるが、取り上げられるのは、現地人から歓迎されている日本人ばかりである。現地人コミュニティーに溶け込もうとせず、現地人との接触がほとんどなかったり、逆に現地人からあまり好感を持たれていなかったりする日本人は、最初から取材対象外となるのだろう。

国にせよ人にせよ、プラスの面もあればマイナスの面もあるのは当然だ。しかし…、光があるから影ができるのではなく、影があるからこそ光照らされた部分がより一層明るく照らされる、—そんな風潮が日本にあるのを見ていると、薄ら寒さを感じずにはいられない。

良いところばかりでなく、悪いところにも目を向けよう

かつてTBS系列で『ここが変だよ日本人』という、日本に住んでいる日本語ぺらぺらな外国人を出演させて、番組名の通り日本の変な部分を面白おかしく取り上げるバラエティー番組があった。もちろん不快感を感じる人もいただろうが、多くの人は「しょうがないなぁ」「うーむ、確かに一理あるなぁ」と笑って過ごしたのではないだろうか。

仮に現在放送されればどうなるだろう?「日本を貶めて視聴率を稼ぐ反日売国番組だ!」「こんな偏向番組はさっさと打ち切れ!」「電波停止しろ!」などと大炎上することは想像に難くない。日本を批判する一方の番組は、今のご時世では難しいだろうが、せめて日本の良いところと悪いところをバランス良く取り上げる番組作りはできないのかなと思ってしまう。

本当の「愛国心」とは?

日本について疑問に思うところや悪いところがあれば、反発を恐れずにどんどん表に出していくべきだと思う。それこそが究極の愛国心だ。

以下は、愛国心に関する格言である。

The greatest patriotism is to tell your country when it is behaving dishonorably, foolishly, viciously. (by Julian Barnes)

(最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、悪辣で、馬鹿みたいなことをしている時に、それを言ってやることだ)
ジュリアン・バーンズ

愛国心

100%同意する。「日本の労働環境は酷すぎる」「日本の刑事司法は極めて悪辣だ」「危険な独裁者が立憲主義を無視して憲法を改悪しようとしている」と声を大にして言える人こそ、真に日本のことを思う愛国者だ。声を大にして言える国こそ、真に自由で民主的な国だ。(自由で民主を名乗るどこかの政党は、圧力をかけて、彼らに都合が悪いことを徹底的に弾圧しているけど)

本音は別として、いつもニコニコ顔で「日本は街は清潔だし、電車は時間通りだし、サービスはきめ細かいし、治安はいいし、日本は最高だね」と言う人と、「鉄道人身事故の多さは日本の自殺の多さを映し出す日本の闇だよね」「日本のサービスの質は高いけど、サービス残業や有給なしがまかり通っている労働環境は酷いよね」と言う人とでは、どちらが日本を客観視できていて、本当に日本のことを考えている人と言えるだろうか? 私は後者であると思う。

ネットに跋扈する自称「愛国者」は、ただの偏狭ナショナリスト

日本を褒める声に対しては、「ほら見ろ! 日本は世界一なんだよ!」と鼻を高くするが、逆に日本を批判する声には、脊髄反射で「そんなに日本を批判するなら出て行け」「反日!」「左翼!」「売国奴!」という反応をするような人は、断じて愛国者ではない。愛国者の仮面をかぶった、ただの偏狭ナショナリストだ

ネットで声高にナショナリズムを叫ぶ人は、全体から見ればごくわずかに過ぎない。しかし、過激な言動こそ取らなくても、隠れナショナリストは確実に増えているのではないかと思う。もちろん、適度に矜持を保つことは否定しないし、大切なことである。臭いものに蓋をするのではなく、適切に処理していかないと、いつかは吹きこぼれて大変なことになってしまう。いや、もう抑えきれなくなって今にも吹きこぼれようとしている。

そんな時代だからこそあえて言う。日本の悪いところをどんどん出していこう。そして、解決策を考え、建設的な議論をし、政治を動かし、日本を良くしていこう。それが民主主義だ。(賞賛する声だけを聞き、批判する声を封じるのは北朝鮮と一緒)

劣化する日本人 (ベスト新書)

劣化する日本人 (ベスト新書)

ネットの足を引っ張る声に惑わされず、自分の直感を信じて貫こう

歳末の候、ふと、故スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学でのスピーチを思い出した。

「今日が人生最後の日だとしたら、あなたは今日する予定のことをするだろうか?」というフレーズは有名だが、私が気になったのはその後の以下の部分だ。

原文:
Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma - which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.

意訳:
時間はあなたを待ってはくれません。だから、他人の人生を生きて無駄に過ごさないようにしてください。世間の価値観に惑わされてはいけません。あなたの内なる声が、他人のノイズにかき消されないようにしてください。あなたが本当に何をしたいのか、どういう人生を送りたいのかは、あなた自身がよく知っているはずです。自分の直感を信じ、それを突き通す勇気を持ってください。それ以外のことは、後回しでいいのです。

これは本当にその通りであると思う。

他人の人生を生きていたり、世間の価値観の惑わされていたりする。それで自分を見失っている、そんな人はネット上には非常に多そうだ。

他人の人生を生きるって?

「他人の人生を生きる」とは、自分のことすら満足にできていない(自分の人生に充足感・幸福感を感じていない)のに、他人のことをとやかく言う人のことではないかと思う。ネットを見ていると、自分と関係がないところでも他人の言動にいちいちケチをつけたり、足を引っ張ろうとしたりする人がごまんといることに気付くのではないか。

他人に意見を言うにしても、それが建設的であったり、背中を押したり、切磋琢磨し合ったりするのであれば別にOKだ。しかし、現実は揚げ足取り、あら探し、足の引っ張り合いが多数を占めている。(実際は少数でも、そういう声が目立ってしまうのがネットの特徴)

以前に、あるブログ記事のはてブで、その記事に対する否定的なコメントであふれかえり、そういうコメントに大量のスター(同意票)が付けられていたというケースを目にした。

ネット村の毒気はスルーしてOK

ネット村の悲観論者たちにありがちな例をいくつか挙げてみよう。

海外脱出を例にとると:
「日本でダメな奴が海外で通用するわけがない」「海外は危険だぞ」「海外に行って何が変わるって言うの」「家族や祖国を捨てるのか」……etc

地方移住を例にとると:
「そもそも地方は仕事ないだろ」「田舎は排他的で溶け込むのは難しい」「地方移住に成功したのは一部だけで聞くのは失敗談ばかり」……etc

結婚を例にとると:
「人生の墓場だよ」「3人に1人は離婚して、既婚者の2人に1人は関係が破綻しているんだよ」「私の知人にさぁ、……」……etc

正論である部分もあるだろう。しかし、海外・地方移住だろうが、結婚だろうが、一流大学進学だろうが何かしらの問題点や突っ込みどころはある。批判しようと思えばどんなことでも批判できる。

ネットの悲観論者たちの足を引っ張る手ネットに巣くう匿名の悲観論者たちは、問題点ばかりを声高にあげつらい、あなたの足を引っ張ろうとする。一部にしか当てはまらないことでも、もっともらしい理屈や統計データを持ち出して、足を引っ張ろうと躍起になる。(ネット住人にとっては、それが生きがいなのだろうなぁ)

足を引っ張る理由は僻みであろう。彼らは、今の彼らの人生に満足していないから、充実した人生を送っている人や、前に進もうとする人が許せないのではないか。

そういった声はノイズとして完全にスルーしよう。あなたは、ネットに渦巻く匿名の足を引っ張る声に惑わされて自分の信念を曲げてしまうほど弱くはないはず。

100のやらない理由ではなく、1のやる理由を見つけよう

やらない理由ではなく、やる理由を見つけよう。やる理由が見つかったら、行動に取りかかろう。もうすぐ年が明けるけど、新年を待たずに今すぐ始めよう。

仮に「10人に1人しか上手くいっていない」というデータがあるのなら、あなたが10人の中の1人になればいいだけではないか。大切なことは、悲観論者たちの声に惑わされず、自分の信念を貫くことである。(もちろん闇雲にするのではなく、緻密な分析・計画は立てることは重要)

「SNSでみんなやってるし、みんないいよって言っているから(本当は気が進まないけど)私もやる」「ネットで反対論・悲観論が多いから(本当はやりたいけど)やっぱり辞める」

最後に、もう一度。

あなたが本当に何をしたいのか、どういう人生を送りたいのかは、あなた自身がよく知っているはずです。自分の直感を信じ、それを突き通す勇気を持ってください。

地球は「行動の星」だから、動かないと何も始まらないんだよ。

地球は「行動の星」だから、動かないと何も始まらないんだよ。

スタンフォードの自分を変える教室 (だいわ文庫)

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「ネットの悪意」の正体と構造

くだらないことでの炎上・ヘイトスピーチ・誹謗中傷・罵詈雑言・ネット私刑…。ネット上にはありとあらゆる「悪意」があふれている。今回は、その「悪意」の正体と構造について書いてみた。

「悪意」を撒き散らす主体は……匿名のどうしようもないおっさん

ネットの悪意世間では、ネットで悪態を吐いているのは「中高生から20代・30代の比較的若い世代のうち、学校・社会に溶け込めない男性が中心」という認識が強い。しかし、その正体は「おっさん」である。もちろん、そういうことをする輩は、前述のようなニートを含め、老若男女を問わず存在しているが、中年男性が突出している。(以前は謎に包まれていたが、ビッグデータの分析で明らかになってきた)

今の若い人たちは、もっとマイルドで、政治的にはリベラルである。

※夫婦別姓や同性婚などの保守派が眉をひそめそうなことも、若年層ほど容認する傾向が強い。*1

リア充の若年層は、「マイルドヤンキー」と呼ばれ、中高生時代からの仲間と連んで、贅沢はしなくても、彼らなりに楽しく過ごしている。非リアの若年層は、ネットで気が合う人とだけゆるく繋がっていて、本やゲームや動画で静かに過ごしている。双方とも、ネットを活用しているが、スルーとアンフォローを上手に使いこなしている。そこからは「意に反する意見があれば、見なければいい」「反論コメントを送って事を荒げたくない」という思惑がある。*2 この辺りが草食系とかマイルドとかと言われるゆえんであろうか。

スルーできずに、わざわざ人様のブログやSNSにまで押しかけていって、匿名で汚い言葉をまき散らすのは中年のおっさんが圧倒的だ。*3*4*5 いやはや、困ったものですねぇ。

幸せそうには見えない人たち

具体的にいうと、学歴・所得・配偶者の有無に関係なく、充足感・幸福感を感じていない人たちである。大学を出て、高給取りのホワイトカラーで、所帯を持っている人も少なくない。*6

「えっ!? そんな社会的ステータスが立派な大人が、ネットで匿名で暴れ回っているの? 一体何故?」と思う人もいるだろう。おそらく、仕事・家族関連で何かしらの問題を抱えているのではないか。

仕事がうまく行っていなかったり、連日連夜の激務で身も心もぼろぼろになっていたり、人間関係で疲れ果てていたり、独身で結婚は絶望的であったり、既婚でも家庭で妻子から蔑ろにされていたり、子育てが上手くいっていなかったり、親の介護の問題を抱えていたり…。個々人のプライベートを調べる術はないが、事情は様々だ。

首都圏の40代・50代の妻子持ちの男性の約半分が自宅に居場所がない自宅難民である*7というデータがあるが、これも無関係ではないだろう。(新婚当初はラブラブだったのだろうなぁ、入社当時は生き生きしていたのだろうなぁと思うとやるせない気持ちになる)

他者を貶めることが唯一のガス抜き手段

年齢に関係なく、生きていればストレスが溜まる。多くの人は、自分なりのストレス解消の手段を持っている。

若い世代であれば、友達と飲みに行ったり、カラオケに行ったり、スポーツしたり、旅行に行ったりと気分転換の手段はいくらでもある。付き合う人は選べるし、仕事だったら辞めればいい。友達がいなくても、独りで楽しむ「ソロ充」も増えている。

しかし、おっさんは、もう簡単に友達を作れる世代ではない。簡単に逃げられる世代・立場でもない。バブルの華やかな時代が忘れられない。今さら夢を追いかけることも、人生をやり直すだけの気力もない。毎日同じことの繰り返しで歳を取っていくだけである。そんな時、(自分基準のモノサシで)他者を蔑むことは、安価かつ手軽な麻薬のような役割を果たす。いつでもOK・どこでもOK・匿名でOKと三拍子揃ったネットは、それを可能にする強力なツールとなる。

バブル期に自分の能力とは無関係に入社でき、今は妻子から蔑ろにされているうだつが上がらないサラリーマンであっても、「正社員で既婚」という属性だけで、ニート・非正規雇用労働者・未婚者や生活保護受給者に対して、優越感を感じる。プライドもあるだろう。

逆に、自分より上の者には劣等感を抱く。年収・学歴自慢は、ネットでは炎上の鉄板ネタである。(人気ブロガーのイケダハヤトさんも、よくおっさんに絡まれているらしい)

ネットで傍若無人に振る舞う人間は、弱者・弱虫・卑怯者

ネットで悪態を吐く層が中年男性が突出してはいるが、すべての中年男性が悪意ある振る舞いをするわけではない。世の中の中年男性の大半は紳士である。悪態を吐いているのはごく一部だ。全体の1%に過ぎないマイノリティーでも、声が大きいだけに目立ってしまう。

私は思う、彼らは弱者であると。例え経済的には弱者ではなくても、精神的には弱者である。弱虫なのだ。弱いから、ナショナリズムにすがる。弱いから、自分より弱い者を叩く。弱いから、自分の間違いを認められない。弱いから、自分の弱さを受け入れられない。

本当に強い人間は、どれだけストレスが溜まっていても、どれだけ不遇でも、どれだけリベラル派に不信感を持っていても、ネット・リアルを問わず、ヘイトスピーチや誹謗中傷はしない。また、本当に賢い人間は、議論をするとき、相手の人格と意見を使い分ける。誰かに意見を言うときも、言葉は慎重に選んでいる。

どうすればいいのか?

小さい子供だったら、言い聞かせることができる。若い世代であれば、リア充にすることでフェードアウトさせることができる。(楽しいことなんていっぱいあるしね)

おっさんの場合は……、説得でどうにかできるものであれば苦労はないし、リア充にすることも難しいし、専門医に診てもらうことを勧めてもプライドが高いだけに逆効果であろうし、どうにもこうにもならない。(該当する人がこの記事を読めば、瞬間湯沸かし器となって私のあら探しを始めることだろう)

結局、私たちにできることはスルーすることである。「あーあ、いい歳こいたおっさんが、○○厨・ブサヨ・ナマポなどと程度の低いネット用語使って匿名で暴れ回ってるよ。それが唯一のストレス発散の手段なんだぁ。俺はこういうおっさんにはならないぞ」と反面教師にするぐらい。

ただ、ネットに横たわる悪意の根底には日本が抱える、止まらない凋落、劣悪な労働環境・家族の問題・親の介護・子供のニートといった数多くの問題が潜んでいることを忘れるべきではない。

呪いの時代 (新潮文庫)

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私が距離を置きたいネットユーザーの特徴7つ

ネットで見ていると、実に多種多様な人がいることに気付くが、残念な人も少なくない。会社であれば、事前の試験や面接で不適格な人は門前払いにできるが、ネットはそうはいかない。今回は、距離を置いた方がよいネットユーザーについて取り上げてみる。

私が距離を置きたいネットユーザー

私が距離を置きたい(あまり関わりたくない=スルーした方がいい)と思っているネットユーザーを特徴を7種を挙げてみる。

①素性が分からないネットユーザー

ネットユーザーの全員が実名を名乗るべきだとか、FacebookやTwitterを使うべきだとは思わない。FBが嫌いな人も、立場上実名を出せない人もいるだろう。ただ、ある程度の素性が分かるようにしようよ。SNSでも、ブログでも、一言プロフでもOKなので。(SNSやブログだと、過去の投稿やいいねから「この人はこういう人なんだぁ」と素性が見えてくる)

ニュースサイトや特定テーマ(政治・社会・ゲーム等)のブログのコメント欄では、あからさまな捨てアカウントや捨てハンでコメントしているケースが散見される。私は完全にスルーしている。端っから見ないです。十中八九、大したことは書いてないので。

②怒っているネットユーザー

怒っていると、出来る話し合いもできなくなる。一体全体何にそんなにお怒りになってるのでしょうね。ドラえもんの「怒りのポップコーン」(怒りをポップコーンに変える秘密道具)を使いたいくらい。(笑) どんな味がするのかなぁ。(ジャイアンの怒りのポップコーンは、紫のジャイアンシチューの味だった)

議論をしているうちに白熱して、ついカッとなってしまったというケースは理解できる。その場合は「あっ、取り乱しちゃいました。どうもすみません」と謝れば、「いいですよ。続けましょう」で済ませられる。端っから怒っているケースはどうにもならない。ブログやSNSを見ていて腹が立つこともあるだろうけど、まずは冷静になろう。

③素直に非を認めないネットユーザー

間違いや勘違いは誰にでもある。大切なことは、それを素直に認められるかどうかだ。

世間を騒がせる事件が起こると、正義の味方気取りの暇人ネットユーザーによって関係先が炎上させられることが多々ある。もし、彼らが鵜呑みにしたネット情報がデタラメで、まったく無関係のところを炎上させた場合、名乗り出て謝罪するのだろうか?聞いたことがないなぁ。炎上させる側は謝罪を求めているのに。

カツオ「中島、あの時はごめんな」

中島「磯野、僕の方こそ悪かったよ」

小学生でもできることなんですよねぇ。プライドだけは高いおっさんネットユーザーにはできないのでしょうね。

④礼儀作法がなっていないネットユーザー

礼儀作法は、日本だろうが海外だろうが、ネットだろうがリアルだろうが存在する。文字のやり取りが基本のネット上の礼儀作法はといえば言葉遣いである。

見ず知らずの人から、何の脈絡もなく「お前」「こいつ」呼ばわりされたり、命令口調で絡まれたりする筋合いはどこにもない。匿名掲示板や同類が集まる一部のSNSグループでは、一種の符丁として通用するかもしれないが、それ以外では非礼である。

⑤侮蔑的な表現を使ってくるネットユーザー

「w」「リア充」のようなネット用語であれば気にならないし、私も使っている。それら以外の侮蔑的なニュアンスがある表現を使ってくると距離を置きたくなる。例えば、「ナマポ」「ブサヨ」「ザイニチ」「○○厨」といった言葉だ。少なくとも、人に向かって使う言葉ではない。「生活保護」「リベラル」「在日コリアン」「在日韓国・朝鮮人」と言おうよ。「○○厨」という幼稚な言葉を使う人も見かけるが、具体的かつ論理的に反論してください。できないなら使わない。

⑥教えて君

この「教えて君」に関しては、今年(2015年)のセンター試験の現代文に出題された。ちょっと調べたらすぐ分かりそうなのに、なぜか質問してくる人である。文字を打っている時間にググれば簡単に解決するのになぁと思ってしまう。悪気はないのかもしれないが、私は現代文の文章の終わりの部分(以下)と同意見だ。

こういった「教えてあげる」は他の人に任せておいて、自分は「未知なるものへの好奇心/関心/興味を刺激することの方をやはりしたい

⑦基本的教養が欠けているネットユーザー

理系・文系を問わず、ありとあらゆる学問は、基礎の上に成り立っている。例えば、四則演算ができないと分数計算はできない、分数計算ができないと方程式はできない、方程式ができないと微分積分はできないといった具合だ。

議論しようとする事柄について最低限の知識と一般教養がないと、議論しても噛み合わないケースが非常に多い。それでも、勉強する意志がありそうな人には、簡単に説明したり、参考になりそうな本を紹介したりすることはありです。(真面目な人は、「よく短期間でそれだけ調べたね」と感心するほど化けるので)

スルーすべきはスルーして快適なネットライフを送ろう

こういうネットユーザーに居合わせたら、スルーすることをおすすめします。だって、疲れるじゃないですか。彼らと建設的な議論が成立することはほぼありません。エネルギーをどんどん消耗していくだけです。その分、ブログ記事を書いたり、本を読んだりする方がずっと為になりますよ。

スルーすべきはスルーして、快適なネットライフを送りましょう。

人を動かす 新装版

人を動かす 新装版

だから僕は「コメント欄」を設けない

「ニュース記事やブログ記事のコメント欄はオワコンである」というイケダハヤトさんの辛口記事が話題になっている。私はこの意見に賛同する。あまりにも‘Spot on!!’だったので、私も久しぶりに記事を書いてみた。

私は、ウェブのコメント欄、特に大手サイトのものは一切見ない。理由は簡単、見るに堪えないほどレベルが低いからである。特に日本最大のポータルサイトであるヤフーニュースのコメント欄は酷い*1

言いたいことがあればブログに書こう

ニュース記事やブログ記事に対して、賛否は別にして、「ちょっと言いたい」という気持ちはよく分かる。それを踏まえたとしても、コメント欄は時代遅れ以外の何物でもない。なぜなら、今はSNSやブログが存在するからである。

匿名ネットユーザー言いたいことがあれば、自分のブログを作ってそこで書こう。わざわざブログを作るほどではないけど、ちょっとしたアドバイスや批評などを送りたい場合は、SNSで言及すればよい。(悪口を言うためだけの捨てアカウントは論外) 記事を書いた人が、その記事への反応を知りたければ、エゴサーチをすればいいだけのことである。

据え付けのコメント欄の出番はどこにもないんだよね。イケダハヤトさんの言うように、“匿名のどうしようもないおっさんを集めるホイホイツール”以外はね。(実際にヤフコメに書き込む人は40代が突出して多い*2)

それでもあえてコメント欄に書き込むのはなぜだろうか?
ちょっと考えると、以下の2点に絞られた。

  1. 匿名で発言したいから。(自分の発言に責任を持ちたくないゆえの匿名)
  2. 「アクセスが多いサイトのコメント欄」という笠に着なければ、ほとんど誰も読んでくれない程度のコメントしか書けないから。

個人ブログでも内容次第で末永く読まれる

匿名であっても、正鵠を射た鋭い意見、複雑な事柄を分かり易くかみ砕いた記事、役に立つ記事を書けば、読者やフォロワーはどんどん増えていく。最初は少なくとも、SNSでひとたび拡散すればネズミ算式に増える。検索サイトで上位に表示されると、長い間多くの人の目にとまることになる。

ちなみに、私のブログは、著名なブログの足下にも及ばない。それでも、月間平均に2万〜3万のアクセス数(PV)がある。開設当初はアクセス数は1桁(笑)。平均滞在時間は約2分、リピート率は3〜4割なので、そこそこ見られていることがわかる。収入も微々たるものだが、はてなブログProの利用料と書籍購入費は十分にまかなえている。

まだブログやSNSが一般的ではなかった頃に開設していた別サイトも、雑誌や書籍で紹介されて、見本誌を送付してもらったこともあった。

他方、ウェブのコメント欄はどうか。コメント欄のコメントは、運営者の裁量(運営者の意に添わない意見)や期限切れであっけなく削除される。その上、運営者の裁量で勝手に利用されることもある。*3

自分のブログやSNSであれば、よほどのことがない限り削除はされない。無断で利用されることもない。(利用規約はしっかりと確認を) その上、内容によっては、末永く読まれ続ける。(逆に消したいけど消せないこともあるけど)

ヤフーニュース、BLOGOS、中央日報などウェブニュースの記事に、金魚の糞のように糞コメントしか残らないコメント欄を設けて儲けての時代は終わった。もう一度書きます。今はウェブコメントではなくブログとSNSの時代である。

今や、ブログなんて誰でも簡単に作れる。一昔前のように、HTMLだの、CSSだの、FTPだのの知識は必要ない。(デザインに凝りたい人は別だけど)

コメント欄は続々と閉鎖されている

海外のニュースサイトにもコメント欄がある場合もあるが、日本ほどの賑わいは見せていない。それどころか、続々と閉鎖されている。

コメント欄があると、コメントをした人が反応を確かめようと足繁く通うため、アクセス数は増えるけど、品位が低下することは否めない。

ニュースやブログ(情報発信系)のように、サイト運営者自身が提供する記事が主体のケースについてである。サイト運営者は利用者同士のコミュニケーションの場を提供していて、利用者同士のコミュニケーションが主体の場合、コメント欄は当然のことながら必要不可欠なものである。(ただ、このケースにおいても、登録なしの匿名で書き込めるコメント欄は時代遅れであると思っているけど)

コメント欄のイノベーション……は難しい

その記事についての、賛否両論を含む読者の建設的な反応を簡単に見られる仕組みというのはあった方がいいのではと思う。ただ、コメント欄のイノベーションは難しいと思う。

クーロン(quelon)という人工知能によるコメント管理システムがあるけど、差別語や暴言を使わなければいいというものでもないし。

ヘイトをまき散らネットユーザーの知性と品性は、フィンランドの小学生より下*4だから。

一般教養と小論文とグループ面接による就職・進学にも使える汎用試験を作って、一定以上のスコアがある人だけ参加できるようにするぐらいしか案が思い浮かばない。

図解 フィンランド・メソッド入門

図解 フィンランド・メソッド入門

お行儀の悪いネットユーザーたち、面と向かって言えないことは書かない

以前、あるブログのはてなブックマークのコメントで、そのブログの著者を指して、「お前」「こいつ」と書かかれているのを目にした。ネットでは珍しいことではない。しかし、気の置けない友達同士の会話ならまだしも、見ず知らずの相手を、何の脈略もなしに平気で「お前」「こいつ」呼ばわりする無神経さに、私は違和感を感じずにはいられない。

お行儀の悪いネットユーザーたち

ネット上の暴言道ばたで「駅はどこですか?」と尋ねられ、脈絡もなしに「スマホでググれ」「交番で訊けや」などとぞんざいに答える人を、私は見たことがない。こういう言葉遣いをすれば、間違いなくいつかはトラブルに巻き込まれるであろうことは、素養がある大人であれば想像に難くない。口論からつかみ合い、最悪の場合、殺人事件に発展することもあるかもしれない。駅で口論になり、線路に突き落としたというニュースを以前耳にしたことがある。

翻って、ネットではどうだろうか? 普通にウェブを閲覧をしているだけで、ありとあらゆる罵詈雑言があふれかえっている。

  • 読んだ人の神経を逆なでする発言を意図的にして、相手の反応を見て楽しむ人。
  • ヤフーニュースに張り付いて、記事掲載後1分もしないうちに、呪詛の言葉を書き残していく人。
  • コメント欄の名前を入力する場所に「通りすがり」「名無し」等の捨てハンを入力したり、タイトル欄や本文の一部のように入力したりして、切捨て御免のごとく書き捨てていく人。
  • Q&Aサイトで、マジメな質問にも関わらず、質問に答えないどころか、質問者を攻撃する人。
  • 喧嘩腰に「てめぇ」「ねぇだろ!」と乱暴な口調で使ったり、呪詛の言葉を書き残したり、重箱の隅をほじくるように揚げ足を取ったりしている人。

枚挙に暇がない。

子供がリアルでそういう言葉遣いをすれば、ほぼ間違いなく大人から「言葉遣いに気を付けなさい!」「もっとお行儀良くなさい!」と注意されるだろう。

ネットの世界では、そんなお行儀の悪い人たちが何と多いことだろうか。

なぜそんなに怒っているの?

彼らはまだ子供なのだろうか? いや、そんなはずはない。子供もいるかもしれないが、大半は大の大人である。中には、所帯を持っている人もいるはずである。

ネチケット(ネット上のエチケット)という言葉が死語になって久しいが、モラルはどこに行ったのだろう?

匿名掲示板のおふざけスレのような場は別として、真面目なブログやニュース記事のコメント欄や著名人のSNSに、あたかも自分が王様で絶対正しいかのような上から目線で、かつ乱暴な言葉遣いでコメントする様からは、相手に対するリスペクトは微塵も感じられない。

彼らを見ていると、この人は一体全体何に怒っているのだろう?なぜスルーできないのだろう? それが生きがいなのだろうか? そんな生産的でもないことによく何時間も費やせるものだなぁ、と思わずにはいられない。

ネットの利用者全体から見れば、一部なのかもしれないが、声が大きいだけに目立ってしまう。

ハンドルを握ると人格が変わるように、ハンドルを持つと人格が変わる

普段は大人しい人でも、車のハンドルを握ると性格が変わる人がいる。*1 鉄に囲まれたことで、自分が強くなった気になるのだろう。同じことが、ネットでも当てはまる。ハンドル(ネット上のニックネーム)という匿名の仮面をかぶることで、自分が強くなった気になるのである。

実名制のFacebookで、暴言や差別的表現を繰り返している人もいる。この場合は、大多数の集団に囲まれていたり、著名人や企業のように相手が立場上反撃できない場合であったり、物理的距離が離れていたりすることが、相手からの反撃を守る砦になっている。もっとも、ネットで実名で情報発信することのリスクを理解していないという、基本的なITリテラシーすら持ち合わせていないのかもしれないが。

リアルで面と向かって言えないことは、ネットで書くべきではない

他人に向かって暴言を吐けば、すっきりするかもしれない。それで、ガス抜きをしている人もいるだろう。

でも、それはものすごくお行儀が悪くて、みっともなくて、大人げない行為であると思う。透明人間になれる秘密道具で、ここぞとばかりに悪戯するのび太と一緒である。(これについては、以前に書いたエントリーを参考にしてほしい)

実社会で面と向かって堂々と言えないことは、ネットで書くべきではない。そういうことは、チラシの裏に好きなだけ書いていればいいじゃないか。会話における言葉は、相手に知見を与えるための道具であって、相手の心を傷つける刃物ではないのだから。

モニターの向こうにいるのは、あなたと同じ人間である。1ページビュー(アクセス)は、1人の生身の人間が、PCやスマホを操作して、1ページを開いたということである。ネットを使うときには、そのことを忘れないようにしたいものだ。

顔が見えないからこそ、リアル以上に気を遣う必要があると思う。

それができない人が多いということは、「貧すれば鈍する」ということわざを体現しているのだろうか。

できる大人のモノの言い方大全

できる大人のモノの言い方大全

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©2018 だから僕は海外に出る、さあ君も by 佐野由自