次男が逮捕されたことに関して、親であるみのもんたへのバッシングが相変わらず続いている。以前にも「共犯でもないのに犯罪加害者の家族を責める集団主義の村社会・日本」というエントリーで取り上げたが、今回も書いてみた。
※私はみのもんたのファンではない。むしろ芸能界自体に興味がない。みのもんたの問題がたまたまクローズアップされたので、それに合わせてエントリーを書いただけである。
そう、これが村社会日本 … みの「これが今の日本、世の中だ」 (デイリースポーツ online)
そう、いじめであり、差別でもあるよ … みのもんたさん:これっていじめじゃないですか (毎日新聞)
30過ぎた子供の親の責任なんて道義的にもあり得ない
みのもんたの息子が逮捕された後、みのもんたは「30歳を過ぎて独立した人間に対し、親が責任を取るのはどうなのか」と発言し世間の反発を買った。著名人のスキャンダルをこよなく愛するマスコミにとっては、絶好の叩きネタだったようで、連日多くの週刊誌でバッシングされた。
マスコミでなくとも、日本人は、成人した子供の犯した過ちに、少なからず親の責任があると感じている人は少なくない。今回のみのもんたの事件でも、みのもんたの「親に責任はない」という言動に違和感や憤りを感じた人も多いだろう。
私は、これに強く異を唱えたい。30歳を過ぎた大人に親の責任なんて存在しない。法的にはもちろんのこと、道義的にも存在しない。むしろ、親の方こそが被害者である。もちろん、親が共犯であったりとか、教唆したりしたとかいうのであれば、話は別なのは言うまでもないが。
親の責任を追及することも差別
私は以前に「婚外子差別違憲判決—自民党幕府とヤフコメに見る封建的で差別に鈍感な人たち」というエントリーで、差別とは「あなたの力ではどうにもできないことで、不利な扱いを受けること」であると書いた。この定義に当てはめれば、成人した子供が罪を犯すかどうかは、親の力ではどうにもできない。すなわち、罪を犯した子の親を責めて、それを理由に不利な扱いをしたり、叩いたりするのは、立派な差別であるといえよう。
成人した子供の親に責任があるなんて、そういう考え方自体が欧米には存在しない。英国人女性殺害事件でも、逮捕された被告の両親が謝罪したが、被害者の両親は「彼も被害者だ」と言っていたのが印象深い。これが希なケースかといえばそうではない。英国のみならず米国、フランスなど欧米諸国では一般的だ。これこそが個人主義という考え方と言えよう。
手塩にかけて育てた息子が犯罪に走られるとは、親の方も被害者という考え方に私は大きく賛同する。親というだけで、連帯責任を問われるなんて、北朝鮮とまったく同じではないか。
成人した子の親の監督責任を執拗に問い、くだらない裁判を起こすケースが多いのを見ていると、日本には、頭が封建時代でストップしている人がなんと多いことかと嘆かずには居られない。
みのもんたを正攻法で叩けないから論点をすり替える人たち
マスコミやネット上の反応では、みのもんたのセクハラ疑惑や次男のコネ入社についてのバッシングがあるが、論点のすり替えも甚だしい。論点は「30歳をすぎた子供に親の責任はあるか否か」であって、セクハラ疑惑やコネ入社の問題ではない。おそらく「30歳過ぎの子供のしたことに親の責任はない」と言い張ったみのもんたの発言が、自分たちの価値観と相容れられず、カチンと来た人が多いのだろう。これは、正論であり、まともな反論ができない。正攻法で反論できないから、セクハラ疑惑とかコネ入社とかの関係のない話題を持ち出して、みのもんたを攻撃しているのではないだろうか。
親であるみのもんたを、論点をすり替えて、執拗にバッシングする人たちを見ていると、私は彼らがすごく幼稚に見えてしまう。こういう考え方が日本全体に根強く残っているのが、日本が村社会である言われるゆえんなのだろう。
日本は封建的な「村社会」から、近代的な「市民社会」へと脱皮を
もう一度言う。罪を犯した人が法の裁きを受けるのは当然である。しかし、彼らの親兄弟や子供などの親族には、共犯でない限り何の責任もない。もし、あなたが彼らに連帯責任があると思っているのであれば、それは時代錯誤の封建的な考えであり、北朝鮮と同じだ。
日本が欧米と肩を並べる先進国であると自認するなら、経済力や生活水準のみならず、物事の考え方も進歩させるべきではないだろうか。
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