だから僕は海外に出る、さあ君も

「日本って何か変だなぁ」という疑問を胸に、思い切って海外脱出した著者が、海外からの視点で日本の社会問題や海外脱出アドバイスを綴るブログ。日本の奴隷的な長時間労働にうんざりしている人、ナショナリズム台頭・人口減・財政難の日本の行く末を危惧している人、協調性という名の同調圧力に耐えられない人、とにかく自分の殻を破ろうと思っている人、そんなあなたに『海外に出ること』を選択肢の1つとして提案する。

だから僕は海外に出る、さあ君も - ニートのガラパゴス日本脱出日記

ガラパゴス化している日本の奴隷的な労働環境と保守的な社会構造に適応できずに海外脱出したニートが海外視点で綴るブログ

仕事なんかクソだろ? 就活やめて日本を出よう! 奴隷やめて海外に出よう! 語学を学び世界に出よう! 「仕事なんてクソだろ」が売り文句の「ニートの海外就職日記」に影響を受けた、あるニートのブログ

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大学入試に人物評価を取り入れれば大学の就職予備校化が加速する

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センター試験現行のセンター試験を廃止して、新しい「達成度テスト(仮称)」に移行する方針が固まったようだ。達成度テストは、基礎レベルと発展レベルの2つに分かれ、発展レベルのテストでは、結果を1点刻みではなく、一定幅を持つ段階評価とし、受験生は複数回受けられるにする。その上で、大学ごとの二次試験は面接や論文を重視するよう求めていくというものだ。早ければ、5年後にも新制度に移行する見通しである。

センター試験廃止へ…2段階「達成度テスト」に (2013/10/21 読売新聞)
大学入試の2次試験、人物評価重視に 面接や論文のほかボランティアなどの活動歴 (2013/10/11 ハフィントン・ポスト)

「人物評価=協調性の高さ」となることは火を見るより明らか

私は、これに異を唱えたい。入試を一発勝負ではなく複数回実施することや、あくまで数ある入試手段の1つとして人物評価を取り入れると言うのなら、私は特に反対するつもりはない。しかし、一般二次試験まで人物評価を加えるとなれば反対である。

大学入試に面接試験や論文試験を取り入れたり、高校時代の各種活動を評価したりすることは、欧米では一般的な選抜方法である。これは、欧米が「異」を尊重する個人主義社会であり、小学校の頃から「他人とは違う自分の考えを持つこと」を第一に教えている教育であるからこそ機能する

しかし、日本の教育は欧米とは真逆だ。日本社会は、超が付くほど集団主義社会である。子供の頃から、「個」を尊重するよりも、空気を読んで、集団や目上の人に黙って従う「協調性」(という名の同調性)を重んじる教育をしてきた。就職時の面接でも、協調性は非常に重要視される。日本において、協調性と同調性はほぼイコールであり、「出る杭は打たれる」ということわざの通り、他人と違う人は、徹底排除される。

そんな日本社会において、二次試験に人物評価が加わるとなれば、十中八九「協調性」が重視されることは想像に難くない。現在の大学が、就職予備校と化しており、各大学が就職率の高さを競っている現状を考えれば当然といえよう。

「変人」は大学に入れなくなる

二次試験が、就職試験と同じように人物評価になれば、「変わり者」や「非リア充」は、大学に入ることが難しくなるのではないだろうか。例えば、勉強はものすごくできるのに、人見知りが激しく、口べたな人間は大学に入りにくくなるのだ。逆に、部活動を3年間やり通したり、病気でも無理して3年間無遅刻無欠席を通したりしたような生徒が評価されるようになる可能性は十分に考えられる。

欧米は、生まれた時点でどこに大学に行けるが決まると言われるほどの階級社会だ。他方、日本では、入試で合格点に達すれば、家柄に関係なく一流大学に入れる。これは、根強い差別が残っている日本において、唯一の「機会平等」と言える。これを変える必要がどこにあるのだろうか?

変えるべきは入り口ではなく出口

私は、日本における教育のあり方がこのままでいいとは思っていない。変えていくべき点も数多い。しかし、一般二次入試に人物評価を取り入れるべきではない。少なくとも、今の段階では。

教育改革で今すべきことは、入り口ではなく、出口を変えることではないか。

私が学生時代、出席を取り終わった後にこっそりと退室したり、代返をしたりする学生がいた。休講ともなれば、喜んで遊びに行ったり、バイトに行ったりする。卒業年度の後期ともなれば、必修以外の科目は、出席する学生自体がまばらだった。おそらく、どこも似たようなものだろう。私は、高い授業料を払っているのに、ドブに捨てているようで非常にもったいないと思う。

日本の大学は入学に厳しく、卒業に甘いと言われている。私は「勉強せぬ者、単位を与えるべからず」で、卒業要件をもっと厳しくしてもよいのではないだろうか。

大学は学びたい人が学ぶところであるべき

学生にとっての大学とは、人がチームを組んで何か生産的なことをして、組織の利益に貢献する場所ではない。知的好奇心・探究心を持つ者が、学問を志す場所だ。学位というものは、出席さえすれば誰にでも与えられるものではなく、一定水準の学問を究めた者に与えられるものだ。

学問をしたい高い意志があり、大学の授業について行けるだけの最低限の学力もあるにも関わらず、曖昧な基準である人物評価の結果次第で、入学を拒まれるということは、あってはならないと思う。

人物評価を取り入れるなら、暗記中心の詰め込み教育や、部活動による協調性(という名の同調性)の植え付けを止めて、欧米のように「個」を尊重する教育制度に衣替えした後であろう。

学力低下は錯覚である

学力低下は錯覚である

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©2018 だから僕は海外に出る、さあ君も by 佐野由自