だから僕は海外に出る、さあ君も

「日本って何か変だなぁ」という疑問を胸に、思い切って海外脱出した著者が、海外からの視点で日本の社会問題や海外脱出アドバイスを綴るブログ。日本の奴隷的な長時間労働にうんざりしている人、ナショナリズム台頭・人口減・財政難の日本の行く末を危惧している人、協調性という名の同調圧力に耐えられない人、とにかく自分の殻を破ろうと思っている人、そんなあなたに『海外に出ること』を選択肢の1つとして提案する。

だから僕は海外に出る、さあ君も - ニートのガラパゴス日本脱出日記

ガラパゴス化している日本の奴隷的な労働環境と保守的な社会構造に適応できずに海外脱出したニートが海外視点で綴るブログ

仕事なんかクソだろ? 就活やめて日本を出よう! 奴隷やめて海外に出よう! 語学を学び世界に出よう! 「仕事なんてクソだろ」が売り文句の「ニートの海外就職日記」に影響を受けた、あるニートのブログ

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無理して「リア充=普通」にならなくてもよい、リア充度=人間の価値ではないのだから

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今の日本を見ていると、「リア充至上主義」なるものがはびこっている。逆に、リア充でない人間、いわゆる「非リア」に対する風当たりはすこぶる強い。そのため、多くの人がリア充であろうと、あるいは、リア充に見せようと躍起になっている。今回は、そんな日本の風潮について書いてみた。

もはや「仲良し教」という宗教

かなり以前、私は以下のような記事を書いた。

今の日本を覆う「リア充至上主義」もそれと同じで、「仲良し教」「リア充教」というべきカルト宗教のように見えてくる。おそらく、「友達は多ければ多いほどいい」「ぼっち=大罪」という教義でもあるのだろう。

そのため、

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と見なされ、まるで人間失格のような烙印を押される。それを避けるため、多くの人が、時には不本意なことでも我慢してまで、「輪の内側の人間」であろうとあがいている。自分では「輪の外側の人間」と認識していても、周りからはそう悟られないようにしている人さえいるほどだ。「便所飯」「リア充に見せるサービス」「結婚式への代理出席サービス」などの存在は、まさにその典型例といえる。

リア充至上主義がはびこっているのは、プライベートだけでなく、就活の場でも同じだ。就活において、企業が求める能力の代表格が「コミュニケーション能力」(コミュ力)である。定義が曖昧な言葉だが、これは「リア充度」を指している可能性が高い。そのため、学業成績の良し悪しや専攻よりも、サークル活動やコンパに精を出し、SNSがそういった写真であふれている人ほど「コミュ力が高い」と見なされ、評価が上がる。逆にSNSを使っていないと、評価が下がる。*1*2

「普通」になろうとせず、普通に生きよう

このように、日本では、リア充(=「普通」)であることへの同調圧力が極めて高いのだが、私は、無理して「普通」になる必要はどこにもないと思っている。なぜなら、リア充であるかどうかで、人間の幸福度や価値は決まらないからだ。

この記事では、カギ括弧付きの〝「普通」〟と、付けていない〝普通〟がある。前者は、みんなと同じという意味での「普通」であり、後者は本来の自分、自分らしい自分という意味での普通である。

輪の中に入ってみんなとわいわいすることが好きな(得意な)人がいれば、嫌いな(苦手な)人もいる。初対面の人とでも容易に打ち解けられる人がいれば、それがなかなかできない人もいる。そういった、いわゆる「コミュニケーション能力」は、背が高い・低い、足が速い・遅いと同様、その人のパーソナリティーの1つに他ならない。そして、パーソナリティーは、変えようと思って簡単に変えられるものでもない。無理に変えようとすると、「私は輪の中に溶け込もうとしているのにできない」→「世の中はリア充至上主義で、リア充になれない人は人間失格」→「私は存在価値がない」という深みにはまってしまうだけだ。

また、「リア充度=人間の価値」でもない。下図のように、人の評価する指標はいくらでもある。

コミュニケーション能力に傾倒する日本

当然、人によって得手不得手がある。リア充度(コミュ力の高さ)もそれと同じで、しょせんは人を評価する指標の1つに過ぎない。高い方がいいかもしれないが、高くなければならないなんてことは全然ない。例えば、プログラミングができないからといって、人間のレベルも低いとは見なされないだろう。それと同じだ。

リア充のように見えているから幸せとは限らない

それに、リア充(に見える人)が必ずしも幸せとは限らない。

今や多く人がスマホを持ち、LINEで繋がっている。特に中高生は、LINEですぐに返事を返さないと、既読スルー(KS)扱いされ、最悪、仲間はずれにされるケースがある。そうなると、当然「ぼっち」になってしまう。「仲良し教」がはびこる日本社会で、ぼっちは大罪とされている。そのため、「勉強したいけどLINEを優先せざるを得ない」というも生徒が少なくないというケースを本で読んだ。

社会人になってからは、飲み会、BBQ大会やカラオケがあることが珍しくないが、そのような場が苦手な場合、それに無理して参加しても、心から楽しむことはできない。人によっては苦痛に感じることすらあるだろう。しかし、半ば強制参加のケースもあるし、「リア充至上主義」の日本では、不本意でも参加することへの圧力が非常に強い。

それで本当に幸せなのだろうか? そこまでして関係を維持しなければならないものだろうか? 日本特有の「リア充至上主義」「仲良し教」の同調圧力に押しつぶされているだけではないだろうか

自分の時間を生きられる人こそが「真のリア充」

「『普通』になれない」「輪の外側の人間になってはいけない」と思い悩んでいる人は、「ぼっち上等」「リア充が何やねん」「私は人付き合いが悪い人間ですが何か」と開き直って、「自分の人生を生きること」を目標に舵を取ればよいのではと思う。つまり、「普通」になることよりも、自分が本当に好きなことに時間を割くのだ。スポーツ、ゲーム、プログラミング、読書、旅行、ボランティア、映画、音楽……などなど、好きなことなら何でもいい。その過程で、境遇が似ている人、気が合う人、この人と仲良くなりたいなと思う人は出てくれば、その時は、勇気を持って第一歩を踏み出してみればいいのではないかと私は思う。

趣味

それが本来の友達のでき方・作り方ではないだろうか。

私に言わせれば、「仲良し教」の同調圧力に負けて、「リア充」を演じているだけ人よりも、自分の時間を第一に生きている人の方が、100倍リア充であると思う。

だから、「普通」になろうとせず、普通に生きようよ。

「みんなで『リア充』の振りをして、みんなで不幸になろう会」なんてくだらない会はいい加減にお開きにしよう。

どうしても、同調圧力が強い村社会である日本社会が息苦しいと感じたり、溶け込むことが難しいと思ったりするなら、何度も言っている通り、「海外脱出」という選択肢がある。

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©2018 だから僕は海外に出る、さあ君も by 佐野由自