下の画像は、以前に「ネット住人」と何気なくGoogleで検索しようとした結果である。嫌われていることが一目瞭然だ。(「ネット民」「ネット住民」でもほぼ同じ)
ネット民──名前欄には「名無し」「通りすがり」といったあからさまな捨てハンや匿名アカウントを使い、二人称は「お前」「てめぇ」、そして「○○厨」「ナマポ」「パヨク」「アスペ」「DQN」といった程度の低いネット用語をまき散らしながら、我こそが正義とばかりに傍若無人に暴れ回る、ちょっと、いや、かなり困った人たち。──嫌われない方がおかしい。
この記事を書いているさなか、ACジャパンが、そんなネット民たちを風刺したインパクトが強い広告(TV・ラジオ・新聞)を展開し、話題になっている。非常に秀逸なので、一度見てもらいたい。
俺たちは「正しい」??
よくネット民が自分たちの言動を正当化する口実として、「俺たちが言っていることは『正しい』」がある。論理的に正しいか否かと訊かれれば、「正しい」こともある。しかし、真面目なブログや実名を出している専門家に対して、呪詛に満ちた言葉を投げかけている様からは、相手に対するリスペクトは微塵も感じられない。もし、相手を説得したり、世の中を流れを変えたりしたい考えているならば、彼らのような物言いはまったく逆効果である。私には、匿名をいいことに、独り善がりな正義感に酔いしれている「御山の大将」にしか見えない。(禁煙場所で喫煙している人をスタッフが注意することは正しいが、その時でも「てめぇ、ここは禁煙だろうが。字が読めねえのかよ!?」と言わないのと同じだ)
残念な「ネット民」が減らない理由
これだけ嫌われているにも関わらず、ネットで悪態をつく残念なネット民は一向に減らない。その理由はどこにあるのだろうか?──それは、叩くことに快感を覚える「バッシング中毒」になっているか、あるいは、ストレス発散の手段がそれしかないからであろう。
誰かのあら探しをしたり、誹謗中傷したり、(御託を並べて)論破したり、暴言を吐いたり、あるいは、自分より下の者を貶めたりすることは気持ちがいい。なぜなら、それによって、溜飲を下げたり、優越感を感じたりできるからだ。
しかし、現実世界ではなかなかこうはいかない。現実世界で、イライラするからといって、見ず知らずの人にいきなり暴言を吐けば、殴り合いの喧嘩に発展するかもしれない。会社・学校であら探しばかりしていると、自分に対する周囲の評価が下がってしまう。現実世界で、他人より優位に立ったり、他人から認められたりしようとすれば、目に見える結果を出す以外に道はないのだが、相応の努力が必要だ。(以下の過去記事も参考)
他方、ネット空間は匿名である。よほど悪質でない限り、特定されて責任を問われる可能性は低い。また、自分より下の者も簡単に見つかる。
※ 他人と自分を比較する物差しは何でもよい。学歴、収入、恋愛経験、実家暮らしか自活か、既婚未婚、SNS充実度……etc。
ネット特有の「狭い繋がり」が、「自分は正しい」を増幅させる
さらに、これらに拍車をかけているのが、ネット特有の「狭い繋がり」だ。
SNSやブログであれば、多かれ少なかれフォロワーや読者がいる。掲示板であれば、足繁く通っている「住人」がいる。誰をフォローするのか、どのブログの読者になるのか、それを決めるのは自分である。そのため、多くの人は、自身の考えに近かったり、共通の趣味が合ったりする人をフォローする。そうなると、目にするのは、自分にとって心地いい情報が多くなる。また、同じ価値観を持つ人が集まっているので、必然的に自分のコメントにも、イイネが付いたり、シェアされたりするしやすくなる。時には、「よくぞ○○を論破してくださいました。さすがですね」「僕もそう思っていました!」といった同意や賞賛のコメントが付くこともあるだろう。逆に、意に反するコメントやユーザーは、ボタン1つで簡単にブロックできる。その結果、どうなっていくのか?──「裸の王様」のようになってしまう人が出てくる。
- はだかの おうさま【裸の王様】
- 〔アンデルセン童話の題名から〕 直言する人がいないために、自分に都合のいいことだけを信じ、真実を見誤っている高位の人を揶揄する表現。「理事長は今や―だ」
スーパー大辞林3.0 (C) Sanseido Co.,Ltd. 2010
こういう現象のことを、「エコーチェンバー現象」という。昨年(2016年)11月のトランプ氏当選にも影響を与えた。
「残念なネット民」にならないために……
ここまで「残念なネット民」について書いてきたわけだが、実は、誰もが「残念なネット民」になる要素を有している。あなたのブログやSNSに批判コメントが投稿され、ついついそれに反論してしまい、気が付いたら汚い言葉による応酬になっていた、というようなケースだ。端から見れば、あなたも立派な「残念なネット民」である。
では、そうならないためには、どうすればいいのだろうか?
私は、「自分とは違う考え方がある」ということを肝に銘じ、それを尊重することではないかと思っている。どうしてもそれが受け入れられず、口論になりそう、あるいは、なってしまった時は、アメリカの人気作家スティーヴン・キングが言った、次のことを思い出すことを提案したい。
ウンコ投げ競争の優勝者は、手がいちばん汚れてない人間だ
スティーヴン・キング
この部分は、村上春樹さんも自身の著書(ムック)の中で引用していて、次のように述べている。
理不尽なことを言われたらどうする? (疑問67より)
村上春樹:「それはちょっとないだろうよ」というような理不尽なことを他人に言われる機会は、僕にも少なからずあります。
昔スティーヴン・キングが「ウンコ投げ競争の優勝者は、手が一番汚れていない人間だ」と言いました。つまり、どれだけ他人にウンコを投げて命中させるかが大事なのではなく、そんな無意味なことで手を汚さないのが人間の品格なんだ、それよりは自分がやるべきことをちゃんとやろうということです。あなたも頭にくることがあったら、このキングさんの言葉を思い浮かべられるといいと思います。
今、この瞬間も、嫌われていることに気付かず、ウンコ=汚い言葉を投げ合って消耗している「残念なネット民」が数多くいる。そして、そんな雑魚たちによる糞コメントが金魚の糞のようにネット社会の底に延延とこびりついている。
私たちは、彼らの土俵に上がらず、自分の時間を生きようではないか。
もし、ここで書いたような「残念なネット民」がこの記事を読んだ場合、顔を真っ赤にして私のあら探しをし始めることだろう。そして、叩けるものが見つかったら、鬼の首を取ったように、クソリプという名のウンコを投げつけてくる。そう、それこそが「残念な行動」である。
- 作者: D・カーネギー,山口博
- 出版社/メーカー: 創元社
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